2/24-2/28のポーランド旅行の記録です。


アウシュビッツ第一収容所から、第二強制収容所 ビルケナウへ移動します。

ここはとても広く、総面積は1.75平方キロメートル(東京ドーム約37個分)で、300以上の施設から成ります。ピーク時の1944年には90,000人が収容されていました。


アウシュビッツ施設のガイド。
とても気さくな雰囲気の中谷さん。
移動のバスで、たまたま近くになり、私たちに話しかけてくれました。

もともとポーランドとはゆかりはなく、
寝具の会社の会社員で
神戸の生まれだと話していました。


「もっと悲惨な雰囲気の場所かと思っていたら、建物がとても立派で、整然としていて、意外でした」

そう言うと

「当たり前だよ。ドイツがそんな適当なものを作るわけないよ。とても、建築技術が進んだ、知的レベルのとても高い、プライドもとても高い国だったんだよ。けれど、そんな国が起こしたことなんだよね。だからこそ、経済が不安定になったとき、失ったと感じたものが大きいと思ったんだろうね。」


そして、一つ気になっていたことを質問。

映画「シンドラーのリスト」
アウシュビッツのシーンがあるのですが、施設内の撮影は行わず、施設の近くにセットを作成し、撮影したそう。

そして、日本で有名な、「白い巨塔」の財前教授がアウシュビッツの施設内を歩くシーン。
ドキュメンタリー以外で、この施設内の撮影を行ったのは、これが最初で、唯一のものなのだそう。
とても興味深いドラマだし、とても印象的なシーン。
ただ、日本のドラマだけが。というのは、なんだか違和感が。

その理由を尋ねてみると。

「以前、著者の山崎豊子さんもここを訪れて、ガイドしています。日本のスタッフが熱く相当頑張って交渉したのでしょうね。
とても寒い、人のほとんどいない早朝の撮影でした。

シンドラーのリストのスピルバーグ監督はここでの撮影をしていません。それは、ここでの被害者への、配慮なのでしょう。スピルバーグ監督自身も、ユダヤ系の方ですし。

ただ、番組の宣伝に使うのは、あまりよくないことかもしれませんね」

そのように話していました。

事実を穏やかに、そして淡々と話す中谷さん。

決して、否定や批判は口にしません。


ここは、ガイドマイクなしでの案内でした。

とても、広大な敷地。

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とても有名なこの風景。

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これは、施設の内側からの風景。
貨物列車に乗せられた人々を、敷地内まで運び込む、引込み線。
この建物の向こう。
線路はヨーロッパ中につながっていました。


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線路に沿って、施設の一番奥まで歩きます。
この奥の林。そのあたりに、ガス室の跡があります。
たしかその距離900m
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車椅子で見学に来ていた人の姿
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これは、実際にここへ収容する人を乗せて来るのに使用された貨物列車。
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ここへ着くと、人々は下ろされ
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医師に、働けるか働けないかの判別をされました。
顔色だけで。
真ん中に立って、右側を指差しているのがそう。
ここへ来た人々のほとんどが、ガス室へ送られ、命を落としました。
あまりにたくさんの人を送り、収容するスペースがなかったそう。

本来命を救う職業の医師。
このような命の選別の役割をここでは担っていました。

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まさにこの場所。
上の写真とほぼ同じアングルですね。
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そして、写真の後ろに映る建物は、これです。
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長い道のりを歩いているとき。
写真や地図で見て、広いとは思っていたけれど
実際に自分の足で歩くと、本当にとても広いのだと実感します。

疲れたなーと、何も考えずに歩いていたとき

中谷さんが一言

「実際に歩くととても長い距離でしょう。列車から下ろされた囚人達は、この長い距離。何を考えながら、ガス室へと向かわされたのでしょうね」
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引込み線の端
最初に見えていた建物が、もうわからないほど。
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慰霊碑があります。
平和式典などは、ここで行われるそう。
被害にあった人々のいた各国から、それぞれの国の言語で文章が書かれた石碑がありました。
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ただ、ユダヤ人は国を持たないので、石碑はないのだそう。
なんだか、はっとさせられることばかり。
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これは英語のもの。


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“FOR EVER LET THIS PLACE BE
 A CRY OF DESPAIR 
AND A WARNING TO HUMANITY,

WHERE THE NAZIS MURDERED
ABOUT ONE AND A HALF
MILLION
MEN, WOMEN, AND CHILDREN,

MAINLY JEWS
FROM VARIOUS COUNTRIES
OF EUROPE.


AUSCHWITZ-BIRKENAU 1940 - 1945”


「ヨーロッパ各国から連行された、主にユダヤ人から成る約150万人の男性・女性・子供をナチスが殺害したこの場所が、永遠に、絶望の叫びと人類への警告とならんことを

アウシュヴィッツ-ビルケナウ 1940 ‐ 1945」


資料が処分されたり、証拠がはっきり残っていないため、
被害者の数ははっきりとはわかっていないそう。
現在の研究では、110万人から170万人と言われています。
ここには、約150万人と記されています。
途方もなく、大きすぎて、想像しにくい数。




時間の経過とともに問題となっていること。
ひとつは施設の保存。
劣化し、朽ちていく施設を
いかに保存していくか。
補強されています。
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そして、もう一つ。
伝える人の人材。

この施設は、終戦から3年後。
ここへ収容され、生還したユダヤ人たちの声により残されました。
また、当時のガイドは、すべてが生還したユダヤ人だったということです。


ソ連により解放されたという名の
共和制。
スターリン体制。
自由はなく、発言の自由もなかった。


その中でも、ユダヤ人たちの、「ここを残す。」という強い意志と、その声はとても強かった。
そのおかげで、この施設は残っているのだそう。


現在、時間経過とともに、
ここの収容を経験した人、年老いていき、少なくなっています。
現在この施設のガイドは270人いるそうですが、すべてがこの戦争を経験していない人だそう。


ただ、ガイドたちは
当事者の話を聞き
学習をしている。
ガイドのトレーニングを積んでいる。

また、当事者だからこそわかることもたくさんあるけれど
当事者だからこそ見えなくなっていることも多いかもしれませんとも。

感情的な部分など。

ドイツが憎くて、見えなくなっている部分もあるかもしれないと。

経験していない人が、語るガイドの賛否について。
可否について、世界中の戦争の資料館などで問われているそう。
たとえば、日本の広島原爆資料館も。


アウシュビッツは、年々見学者を増やしている。
それは、その施設のガイドの方法がうまくいっているという、証拠ではないだろうか。
そんな風に話していました。

中谷さんは何も言っていませんでしたが
ここのガイドになるための試験は、とても難関だそうです。


ガス室跡地。
ビルケナウには、合計3つのガス室がありました。
ドイツは、ここをダイナマイトで爆破し、証拠を消そうとしましたが、
ソ連の進行がとても早く
逃げる前に、破壊しきれなかった。
それで、このような形で施設が残っているのだそう。

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ガス室横には、焼却所で焼いた囚人たちの骨が捨てられた場所があったという。
ドイツ人が殺し、焼いたのではなく、精神的に辛い仕事は囚人達の役割だったそう。罪悪感を感じないためのシステム。

焼却所の写真
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天気がいい。
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施設の境目。高圧電流が流されていた有刺鉄線
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当初レンガ造りだった建物。
戦況の悪化とともに、木造に変更されていきます。
木造の建物の、木材は、戦後、解体され、暖房に使用されてしまったのだそう。

現在残るのは、
暖炉の煙突のみ。
広い敷地に、煙突のみが、多数点在します。
異様な光景。
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これは、レンガ造りの建物。
入ってみるとこんなに晴れていても、ぞくっとするほど寒く、驚きました。
当時、-20~30℃ともなった環境。
薄い囚人服での環境は、とても苛酷だったと思います。

不十分な食事
寒さや不衛生
過酷な労働
劣悪な環境に1ヶ月ほどで命を落とす人が多かったそうです。
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この3段ベッド。
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それぞれの段に7人くらいづつ収容さていた。
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暖房なしでは、ほんの数日で全員が命を落とすほどの寒さだったそう。

たまに暖炉の火がつけられることも。
それは、全員が死んでしまっては、労働力がなくなってしまうから。
施設の中の建設。
そして、周囲に秘密工業地帯が建設され
今でも存在する、大手企業が、ユダヤ人を労働させていたので。
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アンネの日記のアンネフランクも、このビルケナウ収容所に収容されていました。
12歳以上は大人とみなされ、
健康と医師に判断されれば、
生きる権利を得、辛い労働につかされた。

アンネはここで数ヶ月すごしたのち
別の収容所でへ移動。
そこで、チフスに罹患し命を落としている。
終戦の直前であった。

アンネの日記は、同じ隠れ家暮らしていたなかで、
唯一生還したアンネの父親が自宅で発見。
知人に私家版として配ったものが、評判となり、出版されたのだそう。



これは、施設の保存のためなのか。補強のようなもの。
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パンなど食事をくばるための車
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強い日差し。

広い施設を進みます。
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このように、
施設は、囚人たちの手によって作られていました。
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当時の写真
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再現された木造の建物
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すきまだらけでも
木造の方がまだ暖かい
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これはトイレ。
食事も、衛生環境もよくなかった。
トイレは、一日2回。一人20秒だった。
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この建物は、ユダヤ人の収容のためとして設計されていません。
馬小屋として発注されています。
証拠を残さないため。
そして、馬をつなぐための設備まで備えて。

馬57等分のスペースに、人間が1000人収容されていたそう。
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3時間の見学はこれで終了。
最初の建物に戻ってきました。

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トイレ。私たちは、生きているのですね。
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施設を振り返って
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ここにもあがれたよう。
第一収容所へ戻るバスの出発が迫っていたので、そのままバスに乗りました。
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建物の外側の線路
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施設の外から。
ここから、中につながっている線路。

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枯れた花
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バス停は目の前
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第一収容所へ到着。
中谷にさんは、この後すぐ、次のガイドの予定があるとのことでした。
なんだか、余韻もなく、あわててお礼を伝えて、お別れになりました。
感激している私達でしたが
さらっとしている中谷さん。
「じゃあ、バス停はあっちだよ」
と、行ってしまいました。
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10:30からのガイド。
14:00にビルケナウを出発し、14:05に第一収容所へ到着。

14:10にアウシュビッツを出発するバスでクラクフへ戻りました。

もう一度、ゆっくり施設を見てみたい気持ちもあったのですが
バスの本数が少ないこと。
所要時間もけっこうかかることから
これに乗って帰りました。



ここへ来てみて。

来る前に持っていたイメージ。

見学後は、悲惨な、負の遺産ともいえる過去の資料に衝撃を受けるのだろう。
悲惨な生活環境、殺戮の記録。
亡くなった人への思いと、生きている自分。
決して変えられない過去。
何も出来ない無力感。
それを実際に目にすることが、この歴史を繰り返さないことにつながる意味なのだろうと。


けれど、実際に見学してみて


しかし、そうではない、それだけではない。
そう思った。


このような出来事が起こったのは
特別な人の手による
特別な出来事ではないだと。

リーダーがいたとしても、
それを選んだのも、それを支えたり、黙認したのも、普通の人々。
ひとりひとりの認識。


社会的な不安定さから、生じてしまった
ちいさなひずみ


誰もが持つ
心の中の暗い部分。
当たり前の性質から、
にんげんのさがのようなものから起こり
スカレートしてしまったことなのだと。



遠くにある衝撃的な出来事ではなく
自分の身近に、もしかしたらすぐにでも起こりえる
可能性のある出来事なのだと。


知ることだけではなく、これから起こらないために
きちんと事実を認めること。
向き合うこと。
そして、なぜおきてしまったのかきちんと考えること。
そして、それがおこらないための仕組みづくり。


現在の大人だけでなく
将来を担う
子供たちにも伝えていく仕組みづくり。


ヨーロッパでは、暗い過去をいったん認め
そして、前へ進もうとしていることが
伝わってきた。



施設の見学だけでは、ここまでの感想は持たなかったであろう。


本当にここへ来て
実際の目で見たこと
中谷さんの説明を受けられたこと


とてもよい経験が出来たと思っている。



そして、このガイドツアーの中
十数人のメンバーの中に
ワルシャワ大学の日本語講座の大学生 ポーランド人の女の子が2人含まれていました。

主に中谷さんの語りを聞きながらの見学で
休憩時間もなく、すぐに解散だったため
彼女達の語りを聞く機会はなかったのですが

中谷さんが、「ポーランドの人がここにいる状況で、ここの見学をするというのは
日本人だけで見学するのとは、想像する気持ちが違うと思います。
ユダヤ人だけでなく、ここでは多くのポーランド人もまた犠牲になりました。
また、この施設の中は特にひどい環境でしたが
この外も、ドイツ軍に占領され、ポーランドの人々はとても辛い思いをしました。
ドイツの降伏により、解放されたとはいえ、ソ連の支配下。
共産主義となり、自由のない生活。
1988年にようやく民主化しました。血を流すことなく、民主化したこと、そして、現在自由があるということは、奇跡といってもいいのです。」

そんな説明に、彼女達は、静かにうなづいていました。





朝のコーヒー以降何も口にしていなかったので
ジュースを買いに売店へ。

各言語に翻訳された、ガイド冊子。
日本語のもあったので、買いました。
150円くらい。
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見学途中は、皆、だまって中谷さんの説明を聞いていました。

来る途中のバスで知り合った彼女とも、

ばらばらにそれぞれの思いで、

それぞれの歩みと、それぞれの距離で

見学しました。


帰りは、彼女と一緒に。
バスの隣同士の席に座り2時間の移動。


私よりだいぶ若く
年齢も、仕事も、経験も
ぜんぜん違う彼女


彼女と、この見学での、それぞれの思い。
言葉にして、語り合える人がいることのありがたさ。

ここへ来たきっかけ。

見学してみての感想。

それと、それ以外の話も。

フランスにワーホリ中という彼女。

以前の自分と、海外で暮らしてみての自分の変化など。

お互いの国での生活について。



すごく、有意義で楽しい時間でした。


それぞれ、明日の朝、帰国予定。

今日のうちにやりのことしたことがあるので、

クラクフについたら、自分は何をする、どこへ行く予定。

そんな話をしつつ

夕食は、待ち合わせをし、(携帯がなく、連絡を取り合えないので!)
再集合して、一緒に食べることにしました。

良い出会いに感謝。



中谷さんへのガイドについて
所要時間は、第一、第二収容所合わせて約3時間
費用は、人数に応じて分けるので人数によって異なる。
開始時刻もその日によって異なる。

直接のメールのやり取りで予約できます。


中谷さんの連絡先などのホームページはこちら
http://www.e.okayama-u.ac.jp/~taguchi/hito/nakatani.htm
e-mail: nakatani@wp.pl


中谷さんwiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%B0%B7%E5%89%9B


中谷さん書籍










アウシュビッツ=ビルケナウ収容所公式サイト
http://www.auschwitz.org.pl/



シンドラーのリスト
wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88

DVD

シンドラーのリスト スペシャル・エディション [DVD]
リーアム・ニーソン
ジェネオン・ユニバーサル
2012-04-13






劇場予告


動画

赤い服の少女






私が幼少期に読んだ書籍

アンネの日記 (文春文庫)
アンネ フランク
文藝春秋
2003-04











あのころはフリードリヒがいた (岩波少年文庫 3100)
ハンス・ペーター・リヒター
岩波書店
1977-09-16




ぼくたちもそこにいた (岩波少年文庫)
ハンス・ペーター リヒター
岩波書店
2004-08



若い兵士のとき (改版) (岩波少年文庫)
ハンス・ペーター・リヒター
岩波書店
2005-07-16





杉原千畝物語
安藤富雄
三友社出版
2004-02




68e73b997346702fe8f8580f324c5be4
ローズ・ブランチュ (世界・平和の絵本シリーズ (2)) [大型本]

クリストフ・ガッラス
平和のアトリエ
1990-03



エリカ 奇跡のいのち
ルース・バンダー ジー
講談社
2004-07-14



トラップ一家物語 (特選 世界平和の絵本)
ハンス ヴィルヘルム
平和のアトリエ
2002-07