旅に出てのブログは、つい長くなってしまいます。
みんな、うんざりしているんじゃないかと思いつつ
あれも残しておきたい、これも忘れたくないなーと。
自己満足で書き続けてしまってます。すいません。
よかったら、同じ旅の足取り辿ってみてください。
楽しい観光地、ドブロヴニクを去り
ボスニアヘルツェゴビナへ向かいます。
8時発 14:30着予定。
6時間半の旅です。
運転手さんはいつも2人乗っていて、交代で運転しているようでした。
ボスニアヘルツェゴビナについて。
場所はここ
面積 北海道の6割
人口 384万人
首都 サラエボ
民族 ムスリム人44% セルビア人31% クロアチア人17%
宗教 イスラム教 セルビア正教 カトリック
言語 ボスニア語 セルビア語 クロアチア語
人種、宗教、言語が混在していることがわかります。
国内が、
セルビア人の「スカルプス共和国」
と
クロアチア人、ムスリム人(ボシュニャク人)の「ボアニカヘルツェゴビナ連邦」
に分かれています。
国旗
1984年 共産圏で初の冬季オリンピックを首都のサラエボで開催(当時はユーゴスラビア)
しかし、ユーゴスラビア解体の時代のうねりの中
1992年に独立宣言。そして、激しい民族紛争へと移行。
「民族浄化」(エスニッククレンジング)という表現に象徴されるような残虐行為が横行。
死者20万人、難民等200万人の被害を出すこととなった。
サッカー日本代表元監督 オシムさんの故郷でもあります。
上の国旗は、1998年の長野五輪開会式で、初披露されたらしいです。
移動経路はこんな感じ
直線距離だとけっこう近いんですが
道の関係なのか、入国審査とかの関係なのか
アドリア海沿いをしばらく北上してから、東へ進んでいました。
なので、出入国が3回も!
ちょうどいい地図。
座席
ベンツ
クロアチア内、最初はきれいな景色の中を進みます
観光地らしく、休憩所に日本語のお土産もあったりして
クロアチア国旗のイメージ。かわいい。
これは、どの国にも共通することなんだけど
バスにライト、空調とともに、スピーカーがついていて
音楽がかかっていました。ご当地っぽい。
そして、運転手さんがいつも歌っていました。
だんだん風景が変わってきて、葡萄畑かな?
ちらほら廃墟が
本当に無数の廃墟。
これも紛争の爪あとなのだろう。
写真には収めていないが、新しそうな白い石の集合墓地が集落ごとに何度も見られた。
西欧で、かならずひとつの集落にひとつ、カトリックの教会があるように
ここでは、ひとつの集落にひとつのイスラム教のムスクを見た気がする。
ドームの屋根と、高い塔。
休憩スペース
2~3時間ごとの休憩。
20~30分間
トイレがあり、レストランがあることが多く、そこで食事している人もたまに。
ここは、レストラン。
小さな滝があり
食事している人がいて
水車があって、いい雰囲気。いいにおい
と、思ったら
リアルな感じの、丸焼きをしていました!!
びっくり。
質問したら、ラムだと。
豚は食べないもんなー。
この光景、一般家庭の庭でもよくやるらしく、
この後も何度も目撃しました。
日本の庭でのバーベキュー感覚??
周囲の車のナンバーも、クロアチアの国旗をかたどったかわいいものから
ボスニアヘルツェゴビナのに変わっていました。
読めない字 女だろう
男だろう
細くうねる道。けっこう揺れるバス。
酔いそうなので、何も食べてなかったけど
そろそろお昼。
昨日買って食べ切れなかったパン。
小路のパン屋さんのアップルパイ。
休憩中に。
橋
そろそろサラエボ (Sarajevo)
1990年代のボスニア戦争。
ユーゴで主導権を握っていたセルビア人
対
独立を主張する ムスリム人とクロアチア人
結局、セルビアは、セルビアという国が出来て
このボスニアヘルツェゴビナも独立が承認されたんだけど
現在でも、その3種類の人種はこの市内に存在しています。
ただ
それぞれ居住地が違い、バスターミナルも違います。
RS:セルビア人共和国(スカルプス共和国)
FD:ボスニア・クロアチア連邦
東サラエボと呼ばれる、セルビア人居住区側(RS側)のターミナルは、中心部から13km。
主に東側へ向かうバスが出ている。
中心部までバスやトロリーバスで30分かかる。
ムスリム人、クロアチア人居住地(FD側)は、鉄道駅のすぐ横。
主に西に向かうバスが出ていて。連邦ターミナルと呼ばれる。
居住地もバスターミナルも違うということに驚く。
青:連邦ターミナル
緑:東サラエボ
ちなみに、クロアチアからだと、西からのルートなので、中心部の連邦ターミナルでした。
これは、ちょうど東サラエボから連邦ターミナルの間くらいの風景。
廃墟が多い。
トラムが古い
テレビ局?見たことある建物な気がするんだけど。
社会主義っぽい建物。
古く、背の高い集合住宅。
この通りにはとても多い。
よく見ると、どの建物の壁にも、多くの銃跡。
最初は驚いていたが、この後、ほんとうに街中いたるところで目にすることに。
だいたい予定通り14:30到着。
だんなさんは、昨日の夜にグラーツを出発し、今日の早朝にサラエボに到着していました。
宿の鍵を受け取ったり、一人ぶらぶら散策していたみたい。
プリペイドフォンはオーストリアでしか使えないし
iPhoneのlineとかもwifi環境にないと使えない。
連絡手段がないから、落ち合う手段がない。
夜に宿に集合かな。
なんて、言っていたけど、ターミナルまで迎えに来てくれていました。
ホテルがとてもわかりにくく、たどりつけそうにないかららしい。
*サラエボ 連邦ターミナル情報
・チケット窓口 24時間ではなかった。いつしまるかは、忘れた。
・購入通貨 現金のみ。現地通貨 マルカ もしくは ユーロも可 クレジット不可
・ATM なし
・両替 なし 近くの郵便 もしくは 東へ300mほどのショッピングセンターTOMにあり
・ベオグラードへのバスの時間 朝6時のみ 24ユーロ
(東サラエボからは4本/日 あり こっちのほうが少しだけ安いかも)
両替はターミナル近くにはないですが、近くのお店や飲食店でユーロ払いすると、現地通貨のおつりをくれます。レートもいいです。
街中に24時間対応のクレジットや国際キャッシュカード対応のATMがいたるところにあります。
そんなに、あせったり、不安がらなくてもいいかも。
今日は、夜までだんなさんに会えないと思ってたので
ホテルまで移動しつつ、街中をぶらっと見て、あとは宿で休もうかと思っていたんだけど。
せっかく会ったし、二人で観光することにします。
だんなさんも見ていない場所あるようだし。
サラエボの街中
青:鉄道駅、バスターミナル
赤:中心部 旧市街(バシチャルシァ)
黄色:オリンピック会場跡
緑:セルビア人地区 東サラエボ バスターミナル
宿は、赤丸の中心部のあたり。
青のバスターミナルからだと、オリンピック会場の方が近いので
私は大荷物を背負ったまま、オリンピック会場跡地まで歩きます。
共産圏初のオリンピック開催
その後の戦争
栄光と影を併せ持つ場所へ。
オリンピック開催の1984年というと、私は2歳の時だったけど
記憶にある人もいるのかもしれないな。
駅前にそびえるタワー アヴァズツイストタワー
ボスニアを代表する新聞社が入っていて、展望スペースもあるそう。
ボスニア一高いビル。
ボスニアは、展望風景ではなく、近くからその姿を見たいとなんとなく思う。
上りませんでした。
タワーと、その下のビル。
対照的だな。
トンネルを通って
見下ろす墓地 これは普通の昔ながらの墓地だと思う
墓地の近くだからだろう。花屋。
当時、サラエボの街の周囲は、セルビア人に包囲されました。
それをあらわす戦況地図
ぐるりと周囲の山が占拠されている。
サラエボ空港は、国連の管理下だったので、そこだけ空間があいている。
死者は20万人
埋葬する場所、死体の置き場所すらなく
10年前にオリンピックを行った会場に死体を並べていたのだそう。
街を囲む四方の山が占拠され
山から街中が銃撃された。
日中に死体を運んだり、埋葬するのは命の危険があるため
暗い夜間に行われていたとか。
現在は、慰霊碑と墓地になっていました。
無数の新しい墓石
慰霊碑には、没者の名前。
没年は、ほとんど1992年、1993年
桜が咲いていました。
このあたりには、日本人が数百本植樹したと聞きました。
慰霊碑の横に残されていた、オリンピック会場。
おそらく戦争を知らない若者。サッカーをしていました。
スケートリンクセンター
オリンピックのタワー
下の看板には、オリンピックの公式、マスコットの絵
当時から使用されているであろうバス
表彰式などやったのかもしれないような広場
サマランチ会長の名前
オリンピックスタジアムは入れませんでした。
しばらくは廃墟にはっていたけれど、最近はサッカーの試合をしたり、(U2だったかな?)歌手のコンサートもしているそうです。
丘の上から見下ろすと
よーく見ると「SARAJEVO」の文字
緑の座席にくりぬかれるように。
ライト
のぞけた
聖火台だったのだろう (これは後日撮ったもの)
遠くの山にも、新しい集合墓地。
白いのは、きっとあの戦争の没者のもの。
オリンピック跡地をあとにします
ファンタ 青い
市場
ご当地料理の肉の棒
日本のスーパーで見る ハンバーグのネタみたいなものかな?
肉
果物
新鮮そうなホウレンソウ
スキニージーンズを履くのか
SPORT adidasではなく…
戦争から20年。
この土地に人々は暮らしている。
犬が寝ている。見慣れない光景。
日本では、野良犬がいないからか。
異様に感じる。
上の線から電気をもらっている。ケーブルカー。古い。
市内に所々見られる。
「サラエボのバラ」
戦争時 砲弾により6人以上だったかな?死者のでた場所にこの
ように、赤いペンキか樹脂で埋められているそう。
20年経過し、数をへらしているのか。
私は2箇所しか見ませんでした。
サラエボのバラの周囲。
街中なのに、墓地らしきもの。
修復されていないままの建物
町中のいたるところの銃弾の跡
街はおしゃれな人々が行きかい、とても平和な雰囲気。
きれいな、都会的なビルも多い。
ただ、爪跡はまだまだ残されている。
あまりに多くて見慣れてしまいそうになる。
この一つ一つに、銃が打ち込まれ
命が奪われていっていたのかと思う。
補修されてもなお、はっきりとわかる、銃弾の跡。
平和な町並み
戦争時、サラエボにはスナイパー通りと呼ばれるストリートがありました。
このように、セルビアに包囲されていた市内。
旧市街から脱出するには、必ず通らなければならない道。
ただ、動くものはすべて、高層ビルに潜んだセルビア狙撃兵の標的になったという。
砲撃の被害も甚大だが、子供、老人、女性の狙い撃ちされたという。
ピンクの線がスナイパー通り
その通りに面する、1つのホテル。
「ホテル ホリディ・イン」
戦時中も、大きな被害を受けながらも唯一営業を続けたというホテル。
世界中のジャーナリストが宿泊していたという。
街に到着して、すぐ目に入った姿。
改装中なのか、宿泊予約が出来なかったです。
去年は宿泊している人がいたよううですが。
カフェのみ営業しているようだったので、行ってみました。
銃禁止
そのソファに腰掛け
ジャーナリスト達が使ったかもしれない灰皿
コーヒー 安かったです。
100円とか200円とか。
カウンター
壁には、戦時中の絵か写真
free wifi でした。
夕暮れです。
街中を通りながら、宿へ向かいます。
これも銃弾の跡なのか。地面。
Army Shopかぁ
ここは、第一次世界大戦のきっかけになったという
サラエボ事件の現場 「ラテン橋」
昼間の姿
橋のたもとにあるミュージアム。サラエボの歴史がわかるという。
ここを出発した馬車にのった皇太子夫妻は、直後に暗殺されました。
現在は国立図書館。
ふー、重い荷物をしょったまま
だいぶ歩きました。
宿に到着。
ホテルではなくて、分譲マンションを貸し出しているような感じ??
場所はわかりにくかったけど、一泊一人20ユーロくらいで安かったです。
オープンしたばかりで、サイトに口コミがなかったので賭けで泊まってみました。
広い!!きれい。
wree wifi
使えなかったキッチン。
夜遅かったから、言わなかったけど
言えば、使えたのかな?
もったいない、設備。
お湯沸かして、あったかもの飲みたかったなー。
ださいけど、ちゃんとしたベッド。
暖房完備。タオルもあり。
謎のトイレ2つ、風呂あり。
洗濯機あり。使わなかったけど。
長時間の移動のためか、夫が体調不良。
花粉症っぽい感じも??
鼻ぐずぐず。熱もありそう。
食事は、近くにピザやさんがあったので、そこで購入。それと、その近くの商店でご当地ビール。
「Sarajevo」 という銘柄。
ピザ屋さん。
生地をくるくるっと伸ばすところからやってくれて、石釜で焼きたて。
サラダがほしいとい言ったら、メニューにないのに、お店にあった野菜を詰め合わせてくれました。
しかも、サラダをあとから注文したら、ピザが冷めてしまったと、ピザをもう一回焼きなおしてくれていました。
なんて親切!!
24時間、家族で交代で寝ながら、お店をやっていると話していました。
すごく親切で、サラエボに行く人がいたら、ぜひお勧めなお店でした。
ぜんぜんご当地料理じゃないけど。
ピザ300円 サラダ100円
ビールも100円くらいだったかな。
旅はまだ続くので、早めに就寝します。
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