旧ユーゴ訪問もぎりぎりの準備だったのですが
訪問予定の各都市について調べていて、直前にわかったこと。
サラエボの戦争被害。
それ以外に。
ボスニアヘルツェゴビナ国内の都市
「スレブレニッツァ」
あまり聞きなれない都市だと思います。
この戦争中に、セルビア人兵士が8000人以上の市民を虐殺するという
出来事があったことを知りました。
国連が安全地帯と指定した場所に集まったたくさんの難民。
それを、皆殺しにしたという。
現在、そこには、記念碑があり、簡素ながら資料館もあるということ。
どういう形であれ、その地を訪れるべきなんだろう。
私は、そういう風に思っていました。
夫がサラエボに滞在するのは週末のみ。
このまま週末に行っていいのか。
たいして変わらないのだろうけど、
もう少し(といっても、あと1日)調べて、私だけ週明けに行くべきか。
というか、そもそも週末に記念碑の敷地に入れるのか。
夫とサラエボで落ち合った夜。
どうするか、相談。
旅人のいくつかのブログを見ていると、
現地でガイドをしている生還者がいて、連絡先を教えてくれるという人が。
旅立ちに前にメールをしていたのだが
ようやく返信が今日。
今から、その連絡先のガイドさんに連絡しても、もう返信は望めないだろう。
スレブレニッツァまでの往復バスは16ユーロ。
朝7時発 片道3時間 現地を16:30発
丸一日がかりなので、夫が訪問できるチャンスは明日だけ。
ガイドは望めなくても、行ってみたい。
ということで、行ってみることにしました。
一応ガイドさんから、翌朝までの返信も期待して
サラエボ1日目の夜にメールしておく。
そんな旅4日目。
サラエボ2日目。
スレブレニッツァについて
場所は、ボスニエヘルツァゴビナの端。
セルビアとの国境付近。
スレブレニッツァの虐殺
1995年7月ムラディチ率いるセルビア共和国軍により、ボシュニャク人(ムスリム人)がわかってるだけで8000人 虐殺されたという出来事。
文藝春秋より
世界の虐殺ワースト20
にも含まれています。
(日本が被害者、加害者にも多く含まれていて興味深い)
7時に連邦ターミナル発のバス。
5時起き。
部屋の窓からの風景。
きれいな部屋だが、外を見るといまだ戦争の爪痕を感じる。
ドブロヴニクと同じ赤い屋根だが、ドキッとするような風景。
身支度を整えて、駅まで歩きます。
トラムもあるけど。乗り方がわからないので、きちんと調べて時間があるときに挑戦しよう。
駅まで20分くらい。
ピザやさん
まだ暗い早朝
観光スポットのバシチャルシァを通って。
最近見慣れない、オリエンタルな雰囲気。
朝6時だが営業していたカフェ
街角にたくさんのATM.クレジットカード、国際キャッシュカードでおろせる。
都会だ。
立派なホテル
あえて残してある廃墟
やはり銃弾の跡
オリンピックの痕跡
アルジャジーラテレビ
聞いたことがあると思って、後で調べたら
アルジャジーラテレビ
ドーハが本社の中東テレビ局。
アルカーイダから送付された、オサマ・ビンラディン容疑者のメッセージの映像を独占放映したり。
2003年イラク戦争では、イラク市民の戦争被害やアメリカ兵の遺体映像などを流すなど、欧米メディアとは異なる視点のニュースを伝える。
中東のCNNと呼ばれる。
サラエボ支局は2011年開局。
眼鏡屋。なんとなく、不穏な雰囲気。
銃痕
駅に到着。
チケットを購入。
サラエボのバスターミナル
チケットに張られたバーコードを読み込んで、ターミナル構内へ入ることができる仕組み。
スレブレニッツァへ
やはり多くの廃墟
羊
目つきのひどく悪い犬
サラエボ市内は、英語も多かったけど。
増えていく読めない文字。キリル文字というものだろう。
点在する墓地
3時間。
スレブレニッツァの虐殺に対する慰霊碑へ到着。
バスの終着のスレブレニッツァではなく、その5km手前の
「ポトチャリ」で下車。
運転手さんに「ポトチャリ」と
あらかじめ言っておくと教えてくれます。
「スレブレニッツァ虐殺記念碑」
入り口の石碑
「GENOCIDE」 の文字
この出来事は、ジェノサイドと認定されている。
ジェノサイド:一つの人種・民族・国家・宗教などの構成員に対する抹消行為。
民族、宗教、国家。
誰が悪いということではなく。
このジェノサイドは、セルビア人によって行われたことだが
セルビア人だけが悪いわけではなくて
ムスリム人も同じようなことを、セルビア人に行っているわけで
そして、その凄惨な出来事だけ見ると
恐ろしい出来事。
ただ、加害者も被害者も
一人一人、家族を持つ普通の人。
きっと、穏やかな生活を望む普通の人。
一人ひとりの冷静な判断ではなく
状況が人を変え
そうせざるをえなくなっていた。
アウシュビッツの時のように
まだ時間は経過していないので
どれだけこの地域のこの人々が
この出来事を消化し
前に進もうとしているのかはわからない。
ただ、この出来事を認めていること
この出来事を伝えようとしている人がいること
そして、この土地に人々は生活し続けている。
ここには、生活が続いている。
そんな思いで、この土地を訪れました。
慰霊碑の入り口。
さまざまな種類の小さな花が、寄り添って咲いていました。
敷地内
わかっている被害者の数
おそらくそれ以上…
ぐるりと囲むように没者の氏名 そして、その外側には墓標
セルビア人は、この事実を隠すため
一度埋めた死体を掘り起こし、バラバラに別の場所へ埋めたそう。
そのため、遺体自体もばらばらで、一人の人間として見つけることが困難なのだとか。
今も続けられているDNA鑑定。
それで、身元がわかった人々がここに埋葬されている。
私と同じ年に生まれた人もいる 没年は皆同じなので記載されていない
3つの言語で書かれた石碑
アラビア語
ボスニア語
そして英語
こんな文字が並ぶ。
「In the name of GOD」 神の名のもとに
「hope」 願い
「justice」 正義
「play」 祈り
「Never happens again 」 二度と起こらない
無数の墓石
それぞれの名前が刻まれている
写真には写っていないが、お参りに来ている家族がいた。
40代くらいの父親と、ティーンエイジャーの子供達であった。
場所を変えながらお参りしていた。
何人もの家族を失った人なのかもしれない。
ボスニアの国旗
お土産屋さん
お土産はここではちょっと…
と思ったら、写真資料や関連書籍を扱っているようでした。
私も、ポストカードを。
旅先でちょこっとだけ、ポストカードを購入し、友人などに旅の報告や近況を伝えたりしています。
日本にいた頃から
手紙を書く習慣があり
年賀状以外に
春には桜のポストカードを、夏には暑中見舞いを、冬にはクリスマスカードを
ふと思い立った人に
毎年同じ人ではないので
毎回届く人もいれば、春だけ、数年に一度という人もいるのだろう。
たいしたことは書いていないんだけど。
ブログもいいけど。
直接の文字
直接手にする手紙というものが好きなので、
売店のおばさんに確認し
「スレブレニッツァ虐殺記念館」
道路を挟んで向かいの敷地に入ります。
ここで、虐殺が行われた。元国連施設。
残念ながら、ガイドさんらしきひとはいないよう。
運よくメールを見てくれて
誰かいないかと期待していたけれど。
敷地内へ
今はとても静かなこの場所
銃弾の跡
廃墟
よくわからずうろついてしまったけど
ちゃんとした、資料館らしきものがあった。
入れそうです。
訪問者の名前やコメントを自由に記載する冊子
受付。今日は誰もいないけど。
けっこうちゃんとした場所。
建物に入ります。
がらんとした空間に、展示物。
英語での説明と、写真。
天井
1991年 紛争前の民族分布
白い線の左下が、連邦側
右上というか南北がセルビア人の占拠範囲
とはいえ、民族が混在している。
東部には、セルビアの範囲だがボシュニャク人も多く居住していた。
セルビア人は、地理的に連続で民族的に純粋な領土を確保するため
ボシュニャク人の強制退去や虐殺を繰り返した。
1994年当時民族分布。
強制退去により住む場所を失った難民たちは、スレブレニッツァに押し寄せた。
ピンクの中、ぽっかり浮かぶスレブレニッツァ。
四方をセルビアに包囲され、孤立した状態。
小さな村の人口が増え
水、食料、衣料品、住居。すべてが不足した。
3万5千だった人口が、一気に5万から8万まで膨れたと。
押し寄せる人々
国連はスレブレニッツァを安全地帯に指定し、攻撃を禁じた。
数百の武装したオランダ軍の国際連合平和維持活動隊が配備。
国際連合保護軍(UNPROFOR)の指揮官もこの地を訪れ、パニックに陥る人々に
「町は国連の保護下にあり、決してスレブレニツァの人々を見捨てたりはしない」と述べた。
そうは、ならなかったけれど。
しかし、セルビア人はスレブレニッツァの侵攻を始める。
危機感を覚えた、2万人以上の難民達は、
スレブレニッツァ郊外のポトチャリにある国連施設へ保護を求め押しかける。
施設内、付近の工場(今、見学しているところ?)、周囲の畑には人があふれかえったという。
しかし、セルビア人の侵攻は続き
施設内にも。
男性には即決処刑を、女性には、強姦を繰り返されたと。
数百と無力な国連軍の前で、子供の断首、女性の強姦も行われたという。
男性と女性を分け、男性は数箇所に分けて拘留したのち、虐殺したという。その中には、まだ
幼い子供も含まれていた。
女性は、国連とセルビア軍との交渉で、一部引渡しが行われた。
虐殺の前に、セルビア人支配地域を通り、脱出を図ったもの達もいた。
多くは、道の先にセルビア人が待ち伏せしており、逃亡出来ず、殺害されたという。
結局生還できた人は、1/3ほどだったということ。
荒れ果てた土地
生々姿の工場跡
ひしゃげたドア
セルビア軍は、
死体遺棄現場である集団墓地の場所を次々と移し変えていった。
いったん埋めたものをブルドーザーで掘り起こし
ばらばらに埋めなおす。
証拠を隠滅するため。
そのせいで、遺体の身元確認、DNA鑑定が困難になっている。
完全な形の遺体が見つからないと。
ひとつの遺体が、30kmも離れた場所から見つかることもあったそう。
墓地
DNA鑑定により、身元の確定した遺体は
毎年7月11日(ジェノサイドの行われた日)
に、ポトチャリの記念館で埋葬が行われているそう。
有名な写真
遺体を隠そうとした活動があったことは、この虐殺が組織的性質を持っていることの証拠となっている。
また、通常の戦闘による死者は隠蔽される必要がないため、この虐殺の犠牲者は、軍人が戦闘によって死亡したのではないことも明らかとなったといわれている。
壁に銃弾の跡。
一部、遺品の展示もされていた。
幼い子供
彼の書いた文字。ノート
若者
ビー玉
施設には、このような上映設備もあり、当時の映像や、生還者の語りの映像を見ることができるようだった。
この日は、見ることが出来なかったけれど。
工場設備とその奥に、遺品展示と上映施設。
ほんの小さい一角に。
遺書だろうか。
工場よこに、国連施設であった建物。
現在は、ガイドの事務所になっているよう。
この日は入ることが出来なかったが、ガイドとともに、施設内をみることも出来るよう。
残念である。
オランダ軍の、無力感を象徴した、落書きが有名である。
国連 「UN United Nations」
ではなく、「United Nothing」と。
銅像
スレブレニッツァの市街まで、5km。
けっこうあります。
タクシーで移動したと、旅人のブログに書いてありますが、タクシーなんてないし!!
ひとっこ一人いないし。
困って、うろうろしていたら、車が停まってて、助けを求めてみたら、工事の作業員みたいな人??
英語通じないし。
ドイツ語が片言という感じ。
30分で歩いてつくと、ドイツ語とジェスチャーで伝えられたけど
5km 30分は無理でしょう。
しょうがないので、とりあえず、車もほとんど通らない道を歩いていくことにします。
廃墟
バスがたまたま通って、手を振ったけど、停まってくれず。
バス停じゃないから??
夫が、ヒッチハイクを提案するも、なんか怖いしなー。
心が折れそうになったとき、なんと一台のタクシーが。
手を振ったら、他のお客さんも乗っているのに、乗せてくれました。
というか、警察官でした。どういう状況だったんだろ??
街に到着。
とりあえず、昼ごはんを。
お店がわからないので、開いていた商店に入るも、言葉が通じず。
「English」という言うと、しゃべれない人でも
「No」とか「Only german」とか言ってくれるのに。
さっぱりという顔。「English」という言葉の意味がわからないのかも。
そんな中、ティーンエイジャーの少女がお店に。
何かお困りですか?ほしいものがありますか?私、少しなら英語が出来るのでお役に立てると思います。
と。
なんとなく、地元の雰囲気を知りたくて、お店に入っただけだったんだけど、
ちょうどいいので、ランチできそうな場所を聞くと、
小さな町なので、ひとつだけ、古いレストランがありますと教えてくれました。
ホテル アリエル
たしかに、小さいお店だけど、メニューも現地言語と英語があり
スタッフもメニューの説明程度なら英語が通じる。
しかも、ユーロ払いも可と。
歩き方に載っていた、ご当地料理を注文
パプリカを煮込んだビーフシチューのようなもの(グヤーシュ)に、マッシュポテト。
それと
ナンのような生地に、棒状に丸めたひき肉を焼いたものが挟まっている、チェヴァプチチ
生たまねぎのみじん切りが添えられていて、フレッシュな感じ。
夫は、前日も一人でこの チェヴァプチチを食べていたそうだが、微妙で残したそう。
今日のは、どちらもとても美味しかった。
こんな遠く離れた場所で、こんなに美味しいものを食べられるとは。
感激。
なんだか、いろいろ考えて、緊張もしていたので、
ほっとしました。
食後に、カプチーノ
生クリームたっぷりで甘いのに、砂糖もついていた。
コーヒーというと、やはり、エスプレッソのような濃くて少量のものか、カプチーノ、もしくは
ネスカフェ(笑)
ちなみに、アイスティーのことは、ネスレと言っていました。
砂糖パッケージ
バスの時間まで、まだあったのですが、本当に小さな町。
どうしようかと、レストランのスタッフに尋ねると
ちょっと難しい英語はわからないようで
英語が出来そうな、お客さん(というか、地元の仲間?)
をつれて来てくれました。
まだ、時間があるのだが、見るべき場所はあるかと聞くと
「histrical」なものがみたいのか?と。
お店の外まで、出て、道を教えてくれました。
本当に親切。30代半ばだろうか。この街にいる、この年齢の人。
あの出来事を経験した人なのかもしれない。
坂を上ると
小さい街を一望出来た。
本当に小さい街。
その先には、史跡のようなもの。
街を一望できる場所に、十字架。
この十字架は、この街で起きたことをずっと見てきたのか。
それとも、このようなことがあったから、立てられた十字架なのか。
バラのとげ。
蜘蛛の巣を張り、新たな芽が。
この街の、戦いの記憶も。
人々も、忘れるわけではないけれど、復興し、前へ進んでほしい。
そんな気持ちがしました。
イスラムのマーク
やはり廃墟
16:30より少し前
バスターミナルより少し手前に、帰りのバスが停まっていたので乗せてもらいました。
いつかの、旅人のブログにも乗っていた運転手さん。
とてもいい人であったと書かれていたが
ひどく痩せというか、やつれ、目の周囲には深いクマ。
イライラとし、バスに乗り込むと、なにやら地元の言葉で怒鳴り
食べていた途中の食べ物(パンとツナ)を袋に戻して、窓から投げていました。
他にも、バスには乗客がいたんだけど、なんだか、怖かったなー。
何かの境遇か、病気か。
彼を、変えてしまったのだろうか。
20:00前にサラエボに到着。
今日も、夕食は、あのピザ屋さんにしようか。
長旅で疲れたのと
宿までけっこう遠いので、いっぱいだけビールを飲んで帰ることに。
いいとも終了一週間前。
サラエボのアルタ前にいまして。
サラエボにもアルタがあることにびっくり!
サラエボのアルタはおしゃれでした。
ご当地ビールの「Sarajevo」
白と黒と一杯ずつ
たしか1杯100円ちょっと
ずいぶんと都会的になったサラエボの街を見ながら
帰り道
サラエボの火
これは、オリンピックの聖火だったか。紛争時も燃え続けていたという。
宿のそば、バシチャルシアの広場。
今日もピザ。
とても美味しかった。そして、野菜が体にうれしい。
コンビニで勧められて買った、ご当地ワイン。
疲れてあまり飲めなかったなー。
帰宅後メールチェックしたら、昨日連絡してみたスレブレニッツァのガイド長の彼女からメールが。
今日は私も、他のスタッフも不在です。
連絡が間に合わなかったことが、とても残念です。
月曜であればそこにいます。
もし、月曜に来られるなら、私がガイドします
と。
スレブレニッツァに行くと丸一日。
本当の生還者の体験を聞く機会など、もうないだろう。
ただ、サラエボの市内も全くといっていいほど見れていない。
どちらを選んだとして、よい経験が出来ることは間違いない。
どちらを選択するかだけ。
ガイドさんにも、ガイドさんへの連絡方法を教えてくれたジャーナリストさんにも
申し訳ないけれど、私は、サラエボ市内を見ることを選択した。
より多くのものに触れたいという思いから。
スレブレニッツァにもう一日行ったらどうだったんだろう。
あとから思うことはある。
ただ、翌日サラエボで経験したことは、自分にとってとても大きな経験となった。
サラエボ市内を選択してよかったと思っている。
明日、早朝のバスで夫は帰ります。
また、一人の旅に戻ります。