ボスニア紛争
コソボ紛争
NATO空爆
バルカン半島
ヨーロッパの火薬庫。
セルビアには、なんとなく、危険、治安が悪い、不安定、血なまぐさい。
そんなイメージが付きまとうと思います。
しかし、私が出会った数人のセルビア人たちは、みなとても親切でフレンドリーでした。
町並みもとてもきれいで、都会を思わせるような都市。
イメージが180度変わりました。
なかでも印象的だった、セルビア人を一人。
彼は、駅前の慰霊碑らしきものを見ていた時のこと。
知らない老人に話しかけられた私。
近くのベンチに腰掛け、本を読んでいた彼も会話に参加。
老人は去って行き、彼と二人でしばらく話をしました。
友達を待っているんだけど、まだ20分はかかるんだ。
暇だから、話し相手になってよ。
こんなこと日本で言われたら、あやしくて絶対断ります。
ただ、彼が、この慰霊碑って何か知っている?
なんて言うものだから、解説してくれるかもと、ベンチの隣に座って会話を始めました。
彼は、この町に住んではいなく、
このベオグラードの近郊の町「クラグイェヴァッツ」に住んでいるとこのこと。
年齢は30歳。結婚していて、4歳2歳の子供がいると。
今日は、友人に会いに街に出てきたと。
そして、仕事。
私の勉強不足で知らなかったのですが
このクラグイェヴァツは、第二次世界大戦中、ナチスによる虐殺が起こった都市でもあります。
クラグイェヴァツの虐殺
1941年10月
ドイツ兵に対するパルチザンの攻撃の報復として、ロマ、セルビア人が2300-5000人虐殺されたという出来事。
帰宅後調べてみたけれど、wikiでもあまり詳細な情報は得られなかったです。
彼は、その博物館でガイドとして働いているということ。
学校で、たくさんの子供たちが犠牲になったんだ。
(よくわからなかったけれど)
博物館は十字架の形の建物なんだよ。とか、自分はこの仕事を誇りに思っている。
そんなことを話していました。
父親が軍人で、モンテネグロで生まれ、コソボの大学で歴史を学び、現在に至ると。
父親は現役の軍人で、あまりいい仕事だと思わないから、できたら続けてほしくはないんだ。
おじいさんはまだ生きているんだけど、病気なんだ。
あまり長くないかもしれないな。
そして、身近な人の命がなくなることについて何か語っていた。
が、難しくてよくわからなかった。
話を止めるのが悪くて、つい、相槌をうってしまったが。
こういう仕事をしている人だし、きちんと聞ければよかったなー。残念。
NATOの空爆跡について、
戦争の跡をメモリアルとして保存している場所はたくさんあるよね。HIROSIMAやNAGASAKIもそうだし。
ここの街のあの建物はそうではないんだ。ホテルをあの場所に建てるという話もあるくらい。
僕は、あそこは残すべきだと思っている。
日本について
日本は興味があるよ。
HIROSIMA NAGASAKIは有名だよね。
TOKYOUも。TOKYOUは人が多すぎるよね。クレイジーな写真を見たことがあるよ。
この街もだけれど、田舎のほうが収入もいいし、環境もいいのに、若者はみんな都会へ行きたがる。遊ぶ場所が多いのはわかるけれど。あまり、いいこととは思わないな。
この国では、農業が行われているよ。乳製品を作ったりね。
あなたの住んでいる地域の主な一次産業は何ですか?
(富山についてgooglemapを用いて場所と、海と山、米について説明すると)
それはとてもいいところだね。と。
家族について。
25才で結婚して、子供が二人いるよ。少し早い結婚だった気もするけど、子供がいるのはとても幸せな生活だよ。
今日は、6時のバスで街に帰る予定だ。バスで20分くらいなんだ。
結婚について。
(日本では、クリスチャンでもないのに、教会式をする人多いこと、ウェディングドレスを着る人が多いことを話すと。)
この国も、チャペルで式をみんなするよ。
教会には、50人くらいしか呼ばないけれど、
そのあとのパーティは300人以上、多いと1000人くらい呼ぶんだ。
お金がたくさんかかって大変だよ。
(パーティの時間を問うと。)
日本のように、短くはないよ。一日中だ!数日間というひとも多いよ。
これは、稀だけど、一週間という人もいるね!!
お祝いも、近ければ近いほど金額が高くて大変だよ。
テレビや電子レンジといった家電を買うから、高くてね。
子供の頃に空手を習っていたよ。小学校の間だけね。
「KATA」ってわかるかい??
わかるというと、やってくれました。
きちんとしてたんだけど、写真にしたらちょっと変か。
漫画も有名だよね。
グランゾルデって知っている?僕の好きな漫画なんだけど。
知らなかったけど、帰宅して調べたら
グランゾートというけっこう昔の子供向けアニメのようでした。
サッカーといえば、「NAKATA HIDETOSHI」だね。
彼はいい選手だったよ。もう引退したよね。今はどうしているんだろう。
セルビアの有名人を知っているかい?
(知らないというと)
名古屋のプレイヤーだった、ストイコビッチ ピクシーはこの国の選手なんだよ。
ずいぶん、日本通なんだな。
あと、言葉が通じない時は、
旅ノートを出して、絵や図を描いたり
google mapを見て、地図を見たりして補足しながら会話していました。
そうしていると、かれが、この地域の文字と発音、英語のアルファベットとの違いについても
書いて教えてくれました。
なんだか、ゆったりと時間が流れていたなー。
彼は、ビールを飲みながら、この話をしていました。
しかも2L!!
安いし、いつもこのくらい飲むよと。
私も少し、わけてもらって飲みました。
最初は、駅前のベンチに座っていたのに
少しだけ街を案内しようと
駅周辺数百mの範囲だと思うけど、たぶん5分くらい?
少しあるいて、建物の解説もしてくれました。
NATOの空爆跡も。
友人は20分では結局来ず、途中電話をしたりしていて
すぐ来るっていうから座ったのに困ったなーと思いつつ
NATOの空爆跡も見れたし、まいっか。
面白いし。
と、結局1時間以上彼と話していたんじゃないかな。
最後は、友人が現れるのではなく、
友人から電話が来て
行かなきゃ!!
と去って行きました。
一緒に来る??とまで、言っていたけど、それは断りました。
各都市で、一人ずつ。
印象的な人と、出会っているなー。
旅ですな。
旧ユーゴ
今日は、朝一のバスでセルビアのベオグラードへ向かいます。
昨日は、長時間のバス移動がなかったので、体が楽。
こんな感じのルートです。
おそらく道が整備されていないからか、見た目の距離以上に時間がかかります。
途中で国境もあるしね。
しかも、ボスニアとセルビアの。
朝6じ発 13:00着 7時間の道のりです。
セルビアについて
面積 北海道とほぼ同じ (コソボは含まず)
人口 712万人
首都 ベオグラード
民族 セルビア人が83% 他、アルバニア人、ハンガリー人
宗教 セルビア正教 イスラム教(少数)
言語 セルビア語
文字 キリル文字
通貨 ディナール (DIN 1DIN=約1円)
地図によっては、コソヴォも含まれたりするんですが、コソヴォも独立宣言をしています。
が、セルビアは独立を認めていないんですよね。
日本を含む100カ国以上は国として認めているんですが。
ホテルがバスターミナルから近いから楽ちん。
今日も雨
ターミナルに少し早く着きすぎたようで、まだバスに荷物を積み込めないよう。
ターミナル内のカフェでコーヒー。ほっ。
手荷物預けように残しておいた小銭。
ボスニアの国旗を象っている。
バスの下に荷物を預けるのに、たいていお金がかかります。
100円程度。
今回は、いらないと言われました。
サラエボの首都 ベオグラードへ。
今回の旅で一番豪華なシート。
席間もゆったり。
山道で、雪が降っていました。
ドブロヴニクては、半そでで汗かいていたというのに。
バスは暖房効いてて快適でした。
ボスニア国内。集落ごとにみられる、イスラムの寺院。
この美しい風景。何気なく見えますが
右がボスニアヘルツェゴビナ、左がセルビアです。
これから国境を越えます。
国境は意外とすんなり。
パスポートを警察官が預かっていって、
しばらくチェックした後、スタンプを押して返してくれたんだったかな。
特にトラブルなくでした。
国境を越えると、建物、町並み雰囲気が変わります。
移動遊園地
建物も同じ三角屋根、数階建てでも形、バルコニー、建材が異なる。
休憩
人懐っこい犬
トイレの女性マーク。なんか、キャリアウーマンみたい。そういう国!?
ナンバープレートも
家並み
ボスニアヘルツェゴビナより立派。そして、銃弾の跡がない。
見慣れてしまって、経年劣化でああなるんじゃないかと錯覚するほどの光景。
国境を越えるとまったくない。
時々廃墟
セルビアは、独立を阻止するのに攻撃する立場だったから
自民族が暮らしていた場所はあまり荒れていないのか。
もっと、殺伐をした場所をイメージしていただけに、意外であった。
のどかな風景。
バスのスピードが落ちたと思うと、馬車のおじいさんという光景。
こんな広大な畑を管理できるのは、経済力が必要だ。
驚くほど小さな畑を家族4人で耕している姿を、さっきボスニアで見たことを思い出す。
高速道路もとても立派
そろそろ中心部
バスターミナル到着。
たくさんのタクシー運転手が出入り口に群がる。
タクシー乗らんかねと。
東南アジアのような印象。
明日朝、ベオグラードを出発する予定なので、バスチケットを購入しておく。
鉄道、独立したバスターミナルを持つ会社のビルなんかがあって、わかりにくかった。
迷って、通行人に教えてもらった。
*ベオグラードのバスターミナル情報
窓口 現地通貨の現金のみ ユーロ付加 カード付加
ATM 24時間のものがいくつもあり
両替 忘れました
バスターミナルの乗り場に入るために、コインが必要。チケットを購入すると渡されるので、なくさないように。
セルビアからのバス時刻表
http://www.bas.rs/basweb_eng/redvoznje.aspx?lng=en
チケットオフィス
看板があるし、わかりやすい構造のターミナル
明日はクロアチアのザグレブへ。
7:30発 3260ディナール
ここへ来る前、勉強してきたバルカンの歴史。
セルビア人が。セルビア人が。
お互いなんだろうけど、虐殺を繰り返し、権力を握ってきたセルビア人。
血なまぐさい場所。ちょっと怖いセルビア人。
そんなイメージを持たれやすいと思う。
ここへ来てみて、セルビア人のフレンドリーさに驚く。
まず、インフォメーション。
市内マップをもらいに行ったんだけど、陽気なおじいさん。
「どこの地図?ヨーロッパ?この町?この国?どこだい?」
この町ですというと。
「さて、この町の名前はなんでしょう??」
とおどけた調子。こんなの初めてだなー。
駅
駅前
きれいで整備された町並み。ただ、貧しさも感じる。
ここにも日本の国旗のバス。
そういう関係なんだろ??
セルビアは急遽追加した都市。
NATOの空爆跡くらいで、あとは勉強不足。
なんとなく、ぶらぶらしようかなと思って来た都市。
慰霊碑に花。
よくわからないけど、戦争関係のものだろう。
この前で、何度も敬礼している老人がいたので、こっそり写真。
敬礼姿は撮れてないですね。
このおじいさんが突然話しかけてきました。
あんたどこから来たんだい??
ふぉふぉふぉ。
みたいな、よくわからない陽気な感じ。
そして、近くにいたベンチに腰掛けていた若者も参加し、3人でしばしトーク。
おじいさんは、いなくなって、
じゃ、私も。
と、思ったら、例の若者が、
友達を待ってて、あと20分くらいだから、付き合ってくれませんか?
あの、慰霊碑って何かわかりますか?
と。
知らない土地の、知らない人に話しかけられるなんて、ちょっと怖いわ。
と、思いつつ。
慰霊碑の説明してくれるなら。ここは、広場のベンチだし、危険なこともないか。
と、若者の隣に座ります。
結局よくわからなかったけど、1990年代に、たくさんの血が流れたんだ。
それで、つくられたものだよ。
彼の、仕事、家族、生い立ち。
そして、それぞれの国の文化。
一人で歩くだけでは、ガイドブックでは知りえないような話をしてくれて
とても面白かったです。
友人がなかなか来なく、結局友人は現れず、しばらくして、電話が来たので
呼び出されたのかな??
彼は、ごめんね~と去っていきました。
NATOの空爆跡
セルビア人(セルビア) アルバニア人(コソボ)の間の紛争の解決のため、1999年に行われた空爆。
NATO空爆について簡単に説明した記事
広島の原爆ドームやアウシュビッツのように
メモリアルとして、歴史遺産として、意図的に保存している感じではなく
まだ、どうするか決めかねて、残っている。
そんな印象でした。
見学させるような体制は整っていなく
工事現場の周囲のような囲い。
ただ、なんとなく厳戒な雰囲気もあり
軍人っぽい人が数人見回ったりしていました。
まだまだ寂れて、古く崩れたような建物も見られましたが
ホテルから
銃痕 ここでしか見なかった
史跡の中。展示とはいえ、物騒だなー。
多くは、復興している。
とても、きれいで整備されている。近代的な町並みという印象。
本当にイメージと違ってびっくりしました。
整備された公園がたくさん
郵便局
国会
おしゃれな町並み
絵が売っていたり
バイオリンの演奏(彼は、しずかちゃんばりに下手だったけど。なぜここに??)
たくさんのオープンカフェ
秒刻みの信号待ち
公園で卓球
献血車。他人に血液を分けようという、心に余裕があるのか。
ネオゴシックっぽい建物も。
人々もおしゃれで、笑顔
ちょっと気になったもの
お土産やさん イスラム用??
ポスト
どこにいてもある、村上春樹の本
かわいい外壁
そして教会。
聖サヴァ教会
東方正教会系の教会としては、世界最大の規模。セルビア正教の中心的教会。
聖マルコ教会
セルビア正教大聖堂
どの教会も、すごく重厚な雰囲気があって、カトリックとは違う魅力があった。
ただ、真剣にお祈りしている人が多いのと
宗教や民族の争いのイメージが強く
写真を撮ることは失礼にあたるかと思って、ほとんど撮らなかった。
夕暮れ時。
この都市は、大きな川が近くに流れていて、紀元前4500年から栄え、戦いを繰り返してきた場所と。
川を見渡せる、町唯一残されている史跡へ。
ドナウ川
すごくゆったりした時間。
聖ルジツァ教会
銃弾でできたシャンデリアがあった。ときどき物騒。
聖ペトカ教会
ミサをしていて、皆で声をそろえて歌っていたなー。
場違いだったので、退散。
物見台
なんかいい日だったなー。
ただ、6日目ともなるとさすがに疲れてきて
肉とか、パンとか受け付けない気持ち。
サラダが食べたいと思ったんだけど、店を探して歩いているうちに
ふらっと、チャイニーズのファーストフードの店へ。
わざわざセルビアで。
焼きそばと、ブロッコリーとにんじんの炒め物、キムチ風コールスロー。
疲れたときは、アジアの味ですね。
ビールも飲んで、400円くらいでした。
本日の宿
1泊朝食付き14ユーロ 安いから期待してなかったら、14階。眺めのいいお部屋でした。
スタッフもフレンドリー。
シンジカガワ ! ジャパニーズ! グッドプレイヤー!と言ってました。
部屋。ま、こんなもんでしょう。
エレベーターが変わっていた。
ドアが手動。
ドアを閉めると、中身だけ動く仕組みでした。
ホテルからの眺め
旅ももうすぐ終わりです。
明日は、クロアチアに戻って、ザグレブ。
ザグレブは経由地。
乗り継ぎ時間が半日くらいあるので、ぶらぶら観光しようと思ってます。
おやすみなさい。
ちらっと触れましたが
トンネル博物館の近くのお土産やさん(?)で出会ったおじさん。
すごくいい出会い。
とても、印象的な人だったので。
セルビアに包囲されたサラエボ。
外界への唯一の連絡路。
800mのトンネル。
現在も残るその姿の一部を見学することの出来る場所。
トンネル博物館。
その近くの小さなお土産屋のような違うような小屋。
なんとなく入ったら、暇そうなそこのおじさんにつかまってしまった。
商品の説明、そして、フリーガイドブックを出してきて、地元の料理の紹介。
肉を包んたパンをぐるぐる巻いてやいたものや、パプリカに肉と米を詰めたものが入っているトマトスープが美味しいと。
オリンピック会場が、それぞれサラエボのどこにあったのか、スキーは山の中。ボブスレーも山だね。
なんて調子。
暇だし、まいっか。
と、おじさんとの会話を楽しむ。
部屋に張ってある大きなポスター
ここが、セルビアに占拠されていて
ここが国連の空港。ここにトンネルが作られたんだよ。
いまいちわかっていなかった私は、おじさんの説明でようやく理解。
そうこうしていると
部屋にあった、テレビをつけて
DVDを早送りし始めた。
↑テレビの周りの様子からわかるように、普通のお土産やさんというより、普通の部屋。
みたいな、小屋。
DVDにおじさんが映っていて
おじさんは、さっき見てきたトンネルを作った要員だったという。
彼がエンジニア。彼が掘った人。私は、運転手だった。と。
当時のトンネル博物館周囲の戦況や、トンネル内の映像なんかも映っている映像であった。
見てていいよ。
といってくれるが、おじさんがどんどんしゃべるので、映像の解説時以外は
映像を見たり、聞いたり出来なかった。
必要なもので、サラエボのライフラインだったことはわかる。
ただ、なぜ、どういういきさつで、どのような経過、どのような人がかかわるプロジェクトだったのか。
私の語学力では、質問することが出来なかった。
説明してくれても、わからなかったような気もするし。
そしておじさんの話。
おじさんは当時35歳。
一人の子供と奥さんががいた。
奥さんは、妊娠中であったが、爆撃の影響で、8ヶ月になるお腹の子供を失った。
そして、二度と子供を生めない体になってしまったそう。
子供は、もっとほしかったんだ。
子供は何人もいるほうがいいよ。
あなたは結婚しているの?子供は?なぜ子供はまだいないの??
今度は、ご主人と、子供を連れて、この町においでと。
悲しそうに、自分の話をしていたが、
今は唯一の子供に、二人孫がいて、一緒に暮らしているそう。
2才と8ヶ月だったかな。
今は、とても幸せだよと。
暮らしていくのは大変だよ。
こんな小さな店では、収入が本当に少ないんだ。
食べていかなくてはならないから。
こうも話していた。
そして、こんなことがあった街。
とても辛い記憶も多い。
ただ、現実の今の生活
生きていくことの大変さ
そういうものにも追われている。
この町をみていて
銃弾の残る家が多く残るのは
メモリアルとして、意図的に残していこう
二度と起こさないように
そういう、この出来事を消化して、前に進もうとしているからではなく
今の生活をなんとか生きていかなくてはならないから
倒壊した家屋には住めないけれど、
銃弾の跡があるだけの家は住めるから。
それよりも、食べ物を、生活を。
そんな雰囲気を感じた。
おじさんも、そうなのだろうか。
ただ、この街に若い人(私!?)が来てくれて
街のおいしいものを食べてくれたり、街のビールを飲んだり。
楽しく過ごしてくれることを、とても嬉しいと思っているよ。
とも。
私は、サラエボの料理やビールを楽しむために来たわけではないけれど
この街をそんな風に、思っているおじさんの気持ちは伝わってきた。
では、そろそろ。
という感じをだすと。
暇なのか、今度は、タバコを作り始めた。
日本では、タバコはパッケージに入って売っているもの。
この地域では、側の紙と、中身をそれぞれ購入し、自分で作るものらしい。
興味津々に見ていると、得意げに説明してくれた。
まず、こうやって、次に、こうして…。
結局2時間くらいおじさんにつかまってしまった。
でも、いい話も聞けたし、なんだか人と話すのは楽しい。
おじさんありがとう。
最後におじさんと記念撮影をした。
おじさんは、自分のカメラでもと。
どこからか、デジカメを撮ってきて、自分のカメラでも撮影していた。
写真を見ると、まじめくさった顔で
気難しい顔をしているけど
とても陽気でおしゃべりなおじさんだった。
ここからは、バスターミナルまで、徒歩40分。
バスは1時間から1時間半に一本と。
タクシーを呼んであげようかといわれたが、とりあえずバス停まで行ってみて、
ばすがないなら歩くことを告げ、おじさんとお別れした。
よい時間をありがとうございました。
午前中のは雨宿りで、ホテルでだらだら。
昼前にトンネル博物館へ。
トラムで30分。
市街地へ戻って来ました。
中心部の観光をぜんぜんしていなかったので、ぶらぶらっと
サラエボの街の雰囲気を味わおうと思います!!
まず、また、中心部にもあるオリンピック会場跡。
フィギュアのアリーナ跡。現在はショッピングセンターだそう。
宗教的な建物かと思いきやAppleが入ってました。
その前の変わった橋
第一次世界大戦のきっかけとなった
サラエボ事件の現場 「ラテン橋」
の前のミュージアム
入場料安いんだけど、すっごい狭い。
これだけ。
ただ、すごく貴重なものが展示されていました。
サラエボ事件で犯人が撃った銃!!
まさか、現物を見るとは
サラエボ事件の日の皇太子夫妻の写真
その後の、葬儀の様子。盛大。
暗殺直前に、二人が使用していたカップや食器
犯人一味の写真。左が実行犯。
犯人の着ていた服
当日の皇太子夫妻の移動経路
見てもわからないと思いますが、ここにいるとわかった。
暗殺前にも、手榴弾での未遂があって、危険を感じた夫妻は
予定の昼食を取りやめ。
次の目的地への経路も変えたそう。
それが、運転手にきちんと伝わっていなく、予定通りの道を通って暗殺されたと。
警備は、変更された道にいたとか。
暗殺のニュースの新聞
以前は、事件現場の犯人が立っていた場所の道路に、足型が記されていたが
現在はなくなっていた。
そのコンクリートのみ博物館に展示されていた。
民族、宗教が混在するこの国、この地区。
半径50m以内に、イスラムのモスク、カトリック教会、セルビア正教会、ハプスブルグ時代の建物が混在する。
イスラム
カトリック
セルビア正教会
ユダヤのシーナゴーク
中心部。旧市街。バシチャルシァ。
昼の姿は初めて。
いい雰囲気の町並み
コーヒー豆を直接沸かす、ボスニア風(トルコ風)コーヒー。
その容器。
とてもかわいい。
ボスニアには、各家庭にひとつずつ必ずあるものらしい。
スプーン
木製品もオリエンタル
たくさんの取っ手
アクセサリー
サラエボオリンピックキャラクター商品。いらないだろ。売れるのかな。
お土産やさん。
買い忘れたけど、これ欲しかった。くやしい!!
戦況マップ
ポストカードがあればほしかったけど、大きいポスターはね。
持ち帰れないし。
ドレスの展示。
この町並みでドレスを着る人がいるのかな。
クラクフでも、そういうお店いっぱいあったなー、
雰囲気のいい食べ物やさんが多い。
適当な場所に入って。
ボスニアコーヒーを注文。
食べ物は、何かローカルフードを食べたいんですが。というと。
うちの店の食事は、全部ローカルフードだ。と。
たしかに、どれも聞きなれないもの。
適当にひとつ頼む。
ボスニアコーヒー。
濃い少量のコーヒーを小さいカップに注ぐ。角砂糖2つか。甘かったけど、美味しかったです。
食事。
トンネルのおじさんが紹介してくれたものだ。
パプリカにひき肉と、米をつめたもの。
ひき肉の塊に、何か葉っぱをまいたもの。
それをトマトスープで煮込んで、サワークリームがかかっている。
どれも、とても美味しかったです。
なんだか、重たいものばかりみていてたので
ほっとします。
楽しくなってきました。
お土産やさん
食事が運ばれてきたとき、こんな蓋が乗っていたな。
本当にいい雰囲気の町並み。ぶらぶらしているだけで楽しい。
ぶっそうな。銃弾でつくった小物。
豆引き。
取っ手がついた、大小さまざまな容器。どれも、コーヒー入れ。
大きさは、家族や集まりの人数に応じて変わるのだとか。
ご当地料理のブレド。パイみたいな中に、肉とかが包まれている。
これを買って、夜に、宿で食べよう。
こうやって作るのか。
Tシャツ
ライト
かつての
ぶらぶらしていたら、この看板。
カトリック大聖堂の横。
見覚えのある写真。
強い印象のまなざし。
彼女は、昨日訪れた、スレブレニッツァで多くの家族を失った女性。
吸い込まれるように、矢印のほうへ。
EVERYDAY MEMORIAL FILMと。何か、写真展??
建物の入り口。
ちょっと、怖いけど中に入ると、エレベーター。
あがるとそこには、無数の文字
ここは、スレブレニッツァの虐殺に関する
写真展示、映像上映、ガイドを行っているギャラリーでした。
知らなかった私もうっかりものだけれど、こんな場所があったなんて。
偶然とおりかかって、知ることが出来て本当によかった。
入場料が10マルカ(5ユーロ) ガイドが2マルカ(1ユーロ)でした。
ギャラリーのサイト→http://galerija110795.ba/
まずは、30分程度の映像を見てから、ガイドに入りますと。
映像は、当時のものから。
押し寄せる難民、国連が安全地帯に指定し喜ぶ人々の笑顔
セルビア人兵士、たくさんの死体。怪我をしながらも生還した人々の姿。
そして、生還した人々、残された人々の当時の、現在に至る苦悩。
それを、数人の当人達からの語りで。
スレブレニッツァの資料館のガイドは、すべて生還者本人によるものらしい。
なんというか、映像がけっこうリアルでクリア、そして、カラー。
とても、近い時代なのです。
頭では理解しているんだけど
いつのことで、どこのこのなのか。
受け入れがたい。そんな感じで混乱しました。
ただ、昨日のスレブレニッツァの訪問。
それは、それでとても意義のあること。
その場所を直接訪れたこと。
ただ、そこには、その場所が変わらず存在していて、写真、文字の解説がある。
そして、現在のその村の様子を目で、耳で、足で歩いて感じてきた。
本当のこの場所にだけある、存在感。迫力。
ただ、何かが足りない感じ。
それをこの場所が補ってくれたような。
確かにそこに存在感したこと。
そして、現在も人々の中に深く残しているもの。
リアリティ。
ここだけでは、映像と写真。
どこでも、見られるもの。
どちらも経験したからこそ。
足りなかったピースがひとつ埋まったような。
私には、決して埋まることのないピース。
ただ、ほんのわずかだけれどひとつ近づいた。
そんな感じがした。
展示してあった写真(他のサイトからかりてきたものも)
写真撮影できないようだったので。
一部は、購入したポストカード。
犠牲者の顔写真
展示されていたたくさんの写真
この地の象徴する印象的な写真。遺体のおさめてある棺。
多くの家族15人も失った女性
生還した少年
生と死
証拠を消すため、移動を繰り返しばらばらにされた遺体。
それを、生還者で探すためのスコップ
同じジェノサイド。ユダヤ人のアンネフランクの写真を見つめる人。
数千のセルビア兵に対し、たった200人の国連平和維持軍。
無力感ゆえだろう。
国連軍の国連施設への落書き。
国連 United Nation ではなく
United Nothingと。
ここのガイドスタッフはとても若く、スレブレの生還者ではないようだった。
昨日スレブレニッツァを訪れたこと、ガイドと連絡を取り合ったが、間に合わず
ガイドは受けられなかったこと。
偶然この展示を知って、見に来たこと。実に来て、ガイドを聞けてとてもよかった。
そう、ガイドに伝えた。
私達のガイドでは、不十分だと思いますが。
現地の人と比べると…。
とても親切なガイドは、そんな風に話していた。
外に出たら、だいぶ夕暮れ。
セルビア正教会の前
チェスに興じる人々
砲撃による被害者の跡。
サラエボのバラ
夕暮れ サラエボの空
夕方になると、毎日大音量で聞こえるイスラムのアザーン。
これは、礼拝の時間を知らせるもので、
すべてのモスクから流されているという。
聞きなれない言葉、聞きなれない音楽のようなリズム。
最初は怖かったけど、
この夕暮れの風景に町全体がこの音に包まれる。
この音が心地よく響く。
もう聞けなくなるのか。
写真だけでは伝わらない、この町の空気。
参考に
ボスニアの国旗
スーパーで飲み物を。
ご当地商品があるから、スーパーは面白い。
コーヒーがオリエンタルなパッケージ。
買ってないけど、ビールがでかい。2L。
フレーバー水。これ美味しかったなー。明日は朝早いので、バスの中の分も購入。
買ったビール
近くまで行ったのに、よらなかったモンテネグロという国。そこの地名の書いたビールがあったので。
さっき、買ったブレド。
これをつまみつつ、明日の下準備。
パッキングして、明日の街の予習。
長居した、サラエボともお別れです。
お休みなさい。
夫は、グラーツまで直行のバスがあるので、帰ります。
グラーツ=サラエボ間。バスだと往復69ユーロ。とても安いです。
今日はあいにくの雨。
天気予報を見て、念のため私が持って来ていた折り畳み傘。
そんなのでは太刀打ちできないほど、土砂降り。
切羽詰ってトラムに乗りました。
チケットは運転手から直接購入。
歩けない距離じゃないけど、この雨では。
駅のチケットセンター。
私は、明日のセルビア ベオグラード行きのチケットを購入。
このターミナルからは、1日1本 朝の6時発だけ。
東サラエボのターミナルからは、1日4本。料金も安い。
ただ、すごく遠くておっくうなのと、利用したことのないターミナルでバスに乗ることの不安。
あと、早朝出発は、起きるのが大変でも、バスに乗ってしまえば寝られるし
到着が早い分、半日くらい観光できる。
ベオグラードは、そんなに見たいと思っている場所がないので、
ぶらぶらすればいいかと。
ということで、連邦側で購入。
*チケット情報
サラエボ=ベオグラード 6時発 13時着 7時間 24ユーロ
夫を見送り、今日は、一人なので、一人用の宿に移動。
個室、自室専用シャワー付きのユースホステル。
1泊16ユーロ。
頼りのcity map 2 Go も booking.comも地図が間違っていてわからない。
道行く人に尋ねたら、その場所まで連れて行ってくれました。
小さい子供がいたのに、本当に親切。
親切な人がとても多い。
ユースホステルだしと、期待していなかったら
けっこう立派。
チェックイン前だから、荷物だけ預けようと思ったら、部屋も使っていいよと。
土砂降りで、靴も上着もびしょ濡れで寒かったからありがたい。
しかも安いのにきれいな部屋。
バスターミナルに近いから、明日は便利。
上るのは大変だったけど、丘の上にあるので、街が見下ろせていい眺めです。
まだ雨が降っているので、部屋で休憩。
ドライヤーで靴とか乾かしながら。
市内観光をしようとは思っていたんだけど、どこに行こうか、ガイドブックを見ながら考えます。
残ったお金
サラエボの通貨。
マルカ。
2マルカ=1ユーロ
昼前くらいまで、ゆっくりしてしまった。
ぼちぼち出ないと、ここで一日過ごしてしまったらもったいない。
廊下。
郊外にある、トンネル博物館というところへ行ってみることにします。
東サラエボのターミナルがどんなものか見てみたいし。
スナイパー通りを、トラムでずっと移動してみようかと。
青:ホテル周辺
緑:東サラエボターミナル
真ん中下の薄いオレンジのマルがトンネル博物館。
*市内中心部からトンネル博物館へのアクセス
ちょっと遠いので、有料のガイドツアーもあります。たしか16ユーロ。
私はもちろん自力で。
3番トラムで東サラエボのある終点まで。約30分
すぐ横にバスターミナルがあるので
そこから32番バスで終点まで。約10分。
そこから歩いて10分。
バス停の左に小さい橋があるので、それを渡り
すぐに左に曲がります。
住宅地をまっすぐ600m程いくと右手にあります。
とのこと。行ってみよう。
バスターミナル周辺 けっこう都会
市内に多く見られるバス
日本から送られたものだとか。日本の国旗がプリントされていました。
そういえば、国連の明石さんが尽力したとかそういう話か。
ぼろぼろのトラム。
キオスクでチケットを買うと、トラム料金が安いんだけど
見つからなかったので、直接運転手さんから。
1.8Km(マルカ) 100円ちょっと。
機械に通し、ばちっと穴を開けないと、検札の人が来たときにペナルティが。
他の乗客にジェスチャーで聞きつつ、なんとか穴をあけることも完了。
満員のトラムの中、傘を持ったり、ふらふらしていたら
とんとんと肩をたたく人。
言葉は通じないけど、ここをつかむといいよ。
と手すりを譲ってくれた若い女性。頭にスカーフをしていたイスラムの女性であろう。
男性も、席が空いたとき、自分の目の前の席なのに譲ってくれた。
本当に、皆とても親切。
この高層ビルにスナイパーが潜んでいて
動くもの皆撃っていたのかと
想像しにくい、現実離れした、事実を思い起こし
トラムに揺られます。
東サラエボ到着
1食100円しないような飲食店が並び、美味しそうだったのだが、
まずバスをと思って探したら、すぐにあったので乗る。
チケットは運転手から購入。
値段がわからなく、言葉が通じなかったら、他の迷彩服を着た軍人さんのような乗客
自分のチケットを見せくれた。値段の表記があったので、その料金を支払う。
「tunnnel トンネル」に行きたいことを一応伝えておく。
行き先の確認と、きちんと降りられるように。
バスのチケット。紙をやぶって、渡される。
1.6Km(マルカ) 100円くらい。
日本から贈られたというバス。
日本の表示。
目的地に着くと、運転手さんが声をかけて教えてくれた。
しかも、ある老人を指して
この人に付いて行きなさいと。
英語の通じない老人。
ニコニコと、このあたりはと
現地の言語とジェスチャーで説明していくれているようだった。
残念。ごめんなさい。
彼は、この辺に住む人のようで、途中で、自宅に帰っていった。
この先、すぐだよと、私の持つノートに地図まで書いてくれた。
一本道であと数百メートルだというのに。
感謝の握手をして分かれた。
道中にも墓地
到着
多くの銃弾の跡が残る民家 トンネル博物館
サラエボは当時、このように周囲をセルビアに占拠されていた
唯一の外界との交通は、このトンネルのみであった。
ここから、物資、食料、医薬品の輸送を行っていたという。
当時800mあったトンネルは、ほとんど埋められ、現在は25m程度。
それが当時の資料と共に公開されている。
入場料5kmとガイドブックに書かれていたが
10kmだった。倍かい!!
はるばるここまで来たし、しょうがない。
トンネルの前に、資料展示がありました。
なかなか見ごたえのある資料。
当時の写真
トンネルで使用されたのだろうか、ランプ
トンネル内の当時の写真 兵士や市民の姿
このように物資を運んだのであろう。再現。
写真がカラー。現在にとても近いことだと感じる。
カラーの当時の動画もあり。
なんだか、不思議な感覚におちいった。
砲弾。地雷。
地雷って始めて見た。おもちゃみたい。
ここにも。
訪問者の名前と、メッセージを記載する冊子。
ここに訪問してきた人の写真が貼ってありました。
観光地みたいな気もしたけど。
違いますね。
こういう場所に訪れたのかと。
モーガンフリーマン
オーランドブルーム
ジョントラボルタ!
リチャードギア
これもトンネルの再現。
当時の写真
穴だらけのビル
ホテル ホリディイン
煙を上げるビル
この状態になっても、仕事を続けたという新聞社だったかな?
ホテル ホリデイイン この状態で営業していたのか
ホテルもすごいし ジャーナリスト達もここから報道していたのか。すごい。
サラエボ事件で、オーストリアの皇太子達が出発したというあの建物
オリンピックのスケートセンター
そんなところで、トンネルに入ります。
こんな感じ。
私の目線でも、低い。
成人男性だと、かがんでやっとだっただろう。
空港を横切るように作られたトンネル。
すぐ近くに、サラエボ空港が見えました。
トンネルの壁の無数の銃弾跡。
ここだけ保護されていたけど、何か意味があったのだろうか。
トンネルを出て、少し離れたところにお土産やさんのような建物。
入って見ると一人のおじさん。
なんというか、お土産やさんなんだけど、ほしいものがひとつもない…。
こんなところだからしょうがないのかもしれないけど。
サラエボオリンピックのマスコットマグネットとか
トンネル博物館のトンネルモチーフマグネットとか
サラエボのご当地の民族人形?みたいのが、普通のテーブルにちょこっと並べてある。
さっさと、帰ろうと思ったら、店のおじさんがすごく親切にその商品を説明してくれる。
きっと、観光シーズンじゃなくて暇なのね。
話を聞いていると、彼は、このトンネルを作ったスタッフの一人だったそう。
映像を流して、エンジニア、直接の作業を行った人、などと解説をしてくれた。
暇だったのか?
結局、このおじさんに付き合って2時間くらいしゃべってしまった(笑)
すごく、いい出会いだったなー。
ターミナルまで、またバスで帰るというと、すごく遠いというし、バスの1時間から1時間半に1本と。
ただ、時刻はわからないというので、バス停まで直接行って見たら、待っている人が。
聞いていると、5分後に来ると。
すんなり、帰ることが出来ました。
東サラエボのターミナルから、中心部まではまたトラムで30分。
スナイパーどおりを見ながら、トラムに揺られます。
ところで、このブログ。
こんな場所で書いています。
アパートメントの庭がwifi通じているので。
気持ちがいいです。