W杯 盛り上がっていますね。
大会が始まったとき、私はまだオーストリア。
時差で、試合は真夜中3時からとか0時から。
結局、どれもニュースで見ただけ。
帰国してからは、ブラジルの骨折事件のあの試合とか、ブラジルが大敗したあの試合とか、アルゼンチンが決勝進出を決めたあの試合とか。
少しだけ見ています。
NHKの番組を見ていて、元日本代表監督をしていたオシムさんを特集する番組が。
民族共存へのキックオフ 「オシムの国」のW杯
オシムさんは、日本代表の監督をする前は、グラーツのクラブチームの監督をしていて、チームをUEFAチャンピオンズリーグへ導いている。
そして、オシムさんはボスニアヘルツェゴビナのサラエボ出身。旧ユーゴの監督をしていたこともある。
そんな彼の目線から、ワールドカップに初出場のボスニアヘルツェゴビナを追う。というもの。
グラーツに住んでいた、そして、ボスニアヘルツェゴビナへ旅行をした、私は、なんとなく勝手に親近感を覚えていました。
2007年サッカー日本代表監督中、脳梗塞に倒れたイビチャ・オシム。故郷、ボスニアヘルツェゴビナのサラエボへ帰った後の、祖国での彼の活動は、日本ではほとんど知られていない。
そんなオシムの闘いを取材し続けたきた日本人がいる。彼の、今までの取材記録に加え、今回W杯に向けて動き出すオシムさんの取材で番組は構成される。
ブラジルW杯に、特別な使命を背負って出場する国がある。
出場32カ国中、唯一、今回初出場を果たす旧ユーゴスラビアの小国・ボスニア・ヘルツェゴビナ。
日本代表とユニフォームが似ている。と思う。どうでもいいですが。
旧ユーゴ解体。
七つの国境
六つの共和国
五つの民族
四つの言語
三つの宗教
二つの文字
一つの国家
「ヨーロッパの火薬庫」 と呼ばれていた、バルカン半島。
不安定なこの国から、独立をしていく。
現在は、スロベニア、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナ、モンテネグロ、セルビア、マケドニア
人種がモザイク状にいり乱れる この地域
現在から約20年前 独立の際には、戦争があり、とても多くの命が奪われたという。
24年前 オシムは、ワールドカップの舞台に立っていた。
イタリアW杯 ユーゴスラビアの監督として。
多彩なタレントが揃い、ドリームチームといわれたユーゴ代表。
当時のエースはピクシーことストイコビッチ。
しかし内情はとても複雑であった。
当時、民族主義が高まり、分離独立運動が激化していた。
サッカーは民族の代理戦争と化し、スタジアムでは暴動が頻発。
代表チームでも民族の利害がぶつかり、実力で選手を選ぶことが難しくなっていた。
そんな中、代表に就任したオシム。彼は、民族の圧力をはねのけ、実力で選手を起用した。
そして、チームをW杯へ導いた。
ユーゴ 対 アルゼンチン
ストイコビッチのいるユーゴ、そしてマラドーナのいるアルゼンチン。
お互い得点はなく、PK戦へ。
もし負ければ、民族主義者からどのような攻撃を受けるかわからないプレッシャー。
オシムは、選手に問う。蹴りたいものはいるか?
挙手したのは、二人だったという。
その一人はストイコビッチ。そして、彼は、そのシュートを外した。
そして、ユーゴのW杯は終わった。
その後、ユーゴスラビアは内線に突入。
特に激しい戦い衝突が起こったのは、ボスニアであった。20万人の命が奪われたという。
そして、オシムはひとつの決断をする。
抗議のため、代表の監督を辞任。
その闘いから20年。
民族ごとに独立した国家がある。
しかし、クロアチア人、セルビア人、ムスリム人。
民族が混在するボスニアは、ひとつの国の中で、ムスリム人とクロアチア人の地域とセルビア人の地域に分けられた。
平和を取り戻したかのように見えるボスニア。
しかし、現在も紛争の行方不明者の捜索は続けられている。
また、現在も人々の心の中には、深い溝が、傷が残ったままだ。
現在、ボスニアの首都、サラエボ中心部。
ごく狭い範囲に、イスラム教のモスク、カトリックの教会、セルビア正教の教会が存在する。
この国家の、民族の状態を象徴しているように思う。
今回のブラジルW杯
初出場のボスニアヘルツェゴビナ
このことは、人々の希望となった
オシムの言葉
「長い間、何をやっても成功を手にすることが出来なかった。あの戦争(内戦)の後,全てが荒廃した中で、誰しも一生貧困が続くと考えていた時、サッカーが救いとなった。」
現在のサッカーボスニア代表選手たちは、当時の戦争を幼少期に経験したものが多い。
そして、オシムが率いたユーゴ代表に憧れた少年達だ。
ヨーロッパ予選を勝ち抜いていった、ボスニア代表。
主軸となったのは2人の選手。セルビア人の<ミシモビッチ>がゲームを組み立て、ムスリム人の<ジェコ>が決める。これがボスニア代表の闘い方だ。
しかし、W杯出場には大きな壁があった。
ボスニアのサッカー協会は民族ごとに3人の会長がいた。2011年、国際サッカー協会が代表3人も乱立する限り国際試合への参加を認めないと通告。このままでは、W杯出場が出来ない。
そこで白羽の矢がオシムのもとに立てられた。
ここでも民族対立の壁が大きく立ちはだかる。とても難しい問題だ。
オシムは自分の民族を口にすることを好まない。
自身はクロアチア系の血を引き妻のアシマはムスリムだ。
どの民族かと聞かれれば自分は、サラエボっ子だと答えてきた。
不可能といわれた、この難題。オシムは、各会長のもとを訪れ、問題を解決へ導く。
セルビア指導者 ロディックのもとを訪れ、こう語りかけたという。
「サッカーはボスニアの宝だ。それをあなたは潰しても良いのか?」と。
オシムの力で参加を認められたボスニアはヨーロッパ予選で快進撃を続けた。
ムスリム人のエディン・ジェコ。国民的スターでボスニアのダイアモンドと言われる。エース・ストラッカー。
セルビア人のズビェズダン・ミシモビッチ。チームの大黒柱。絶妙の連係を誇るジェコとミシモビッチ。
ジェコはこう語っていた
「僕らは、民族や名前なんて関係ないということを皆に示したんだ」
オシムはこう語る
「ボスニア代表は、民族の壁を越え、一つになるシンボルだ。サッカーは人と人とを結びつける。人は心の底では<共存>を望んでいる。このチームには、我が国の民族を再び結束させる力がある。そのためには、ワールドカップでの成功が必要だ。」
W杯 ブラジル大会
初戦の相手は、アルゼンチン。
結果は1-2 で敗退。
しかし、初出場のW杯での、歴史的な初得点。
試合には敗れたが
祖国の人々の声援はいつまでも鳴り止むことはなかった。
初出場 ボスニアヘルツェゴビナのW杯の成績
対アルゼンチン
1-2 で敗退
対ナイジェリア
0-1 で敗退
対イラン
3-1 で勝利
このことが、ボスニアの希望に、前進する力になってほしいと思う。
自分の、興味と、勉強不足だと思うけれど
オシムさんがこんな重たいものを背負って生きてきた人だったと
全く知らなかった。
知っていたら、当時のオシムさんを見る目も大きく違っていたんだろう。
ま、あまり、興味もなく、にわかファンで試合を見ていただけだったんですが。
今年4月
セルビア訪問時、目にした光景。
サラエボオリンピック跡地が内戦後の墓地となっていた。
その慰霊碑のある、オリンピック跡地で、サッカーの練習をする選手達。
ボスニアヘルツェゴビナ 訪問時のブログ → こちら
サラエボ 【ボスニアヘルツェゴビナ】
ちらっと触れましたが
トンネル博物館の近くのお土産やさん(?)で出会ったおじさん。
すごくいい出会い。
とても、印象的な人だったので。
セルビアに包囲されたサラエボ。
外界への唯一の連絡路。
800mのトンネル。
現在も残るその姿の一部を見学することの出来る場所。
トンネル博物館。
その近くの小さなお土産屋のような違うような小屋。
なんとなく入ったら、暇そうなそこのおじさんにつかまってしまった。
商品の説明、そして、フリーガイドブックを出してきて、地元の料理の紹介。
肉を包んたパンをぐるぐる巻いてやいたものや、パプリカに肉と米を詰めたものが入っているトマトスープが美味しいと。
オリンピック会場が、それぞれサラエボのどこにあったのか、スキーは山の中。ボブスレーも山だね。
なんて調子。
暇だし、まいっか。
と、おじさんとの会話を楽しむ。
部屋に張ってある大きなポスター
ここが、セルビアに占拠されていて
ここが国連の空港。ここにトンネルが作られたんだよ。
いまいちわかっていなかった私は、おじさんの説明でようやく理解。
そうこうしていると
部屋にあった、テレビをつけて
DVDを早送りし始めた。
↑テレビの周りの様子からわかるように、普通のお土産やさんというより、普通の部屋。
みたいな、小屋。
DVDにおじさんが映っていて
おじさんは、さっき見てきたトンネルを作った要員だったという。
彼がエンジニア。彼が掘った人。私は、運転手だった。と。
当時のトンネル博物館周囲の戦況や、トンネル内の映像なんかも映っている映像であった。
見てていいよ。
といってくれるが、おじさんがどんどんしゃべるので、映像の解説時以外は
映像を見たり、聞いたり出来なかった。
必要なもので、サラエボのライフラインだったことはわかる。
ただ、なぜ、どういういきさつで、どのような経過、どのような人がかかわるプロジェクトだったのか。
私の語学力では、質問することが出来なかった。
説明してくれても、わからなかったような気もするし。
そしておじさんの話。
おじさんは当時35歳。
一人の子供と奥さんががいた。
奥さんは、妊娠中であったが、爆撃の影響で、8ヶ月になるお腹の子供を失った。
そして、二度と子供を生めない体になってしまったそう。
子供は、もっとほしかったんだ。
子供は何人もいるほうがいいよ。
あなたは結婚しているの?子供は?なぜ子供はまだいないの??
今度は、ご主人と、子供を連れて、この町においでと。
悲しそうに、自分の話をしていたが、
今は唯一の子供に、二人孫がいて、一緒に暮らしているそう。
2才と8ヶ月だったかな。
今は、とても幸せだよと。
暮らしていくのは大変だよ。
こんな小さな店では、収入が本当に少ないんだ。
食べていかなくてはならないから。
こうも話していた。
そして、こんなことがあった街。
とても辛い記憶も多い。
ただ、現実の今の生活
生きていくことの大変さ
そういうものにも追われている。
この町をみていて
銃弾の残る家が多く残るのは
メモリアルとして、意図的に残していこう
二度と起こさないように
そういう、この出来事を消化して、前に進もうとしているからではなく
今の生活をなんとか生きていかなくてはならないから
倒壊した家屋には住めないけれど、
銃弾の跡があるだけの家は住めるから。
それよりも、食べ物を、生活を。
そんな雰囲気を感じた。
おじさんも、そうなのだろうか。
ただ、この街に若い人(私!?)が来てくれて
街のおいしいものを食べてくれたり、街のビールを飲んだり。
楽しく過ごしてくれることを、とても嬉しいと思っているよ。
とも。
私は、サラエボの料理やビールを楽しむために来たわけではないけれど
この街をそんな風に、思っているおじさんの気持ちは伝わってきた。
では、そろそろ。
という感じをだすと。
暇なのか、今度は、タバコを作り始めた。
日本では、タバコはパッケージに入って売っているもの。
この地域では、側の紙と、中身をそれぞれ購入し、自分で作るものらしい。
興味津々に見ていると、得意げに説明してくれた。
まず、こうやって、次に、こうして…。
結局2時間くらいおじさんにつかまってしまった。
でも、いい話も聞けたし、なんだか人と話すのは楽しい。
おじさんありがとう。
最後におじさんと記念撮影をした。
おじさんは、自分のカメラでもと。
どこからか、デジカメを撮ってきて、自分のカメラでも撮影していた。
写真を見ると、まじめくさった顔で
気難しい顔をしているけど
とても陽気でおしゃべりなおじさんだった。
ここからは、バスターミナルまで、徒歩40分。
バスは1時間から1時間半に一本と。
タクシーを呼んであげようかといわれたが、とりあえずバス停まで行ってみて、
ばすがないなら歩くことを告げ、おじさんとお別れした。
よい時間をありがとうございました。
午前中のは雨宿りで、ホテルでだらだら。
昼前にトンネル博物館へ。
トラムで30分。
市街地へ戻って来ました。
中心部の観光をぜんぜんしていなかったので、ぶらぶらっと
サラエボの街の雰囲気を味わおうと思います!!
まず、また、中心部にもあるオリンピック会場跡。
フィギュアのアリーナ跡。現在はショッピングセンターだそう。
宗教的な建物かと思いきやAppleが入ってました。
その前の変わった橋
第一次世界大戦のきっかけとなった
サラエボ事件の現場 「ラテン橋」
の前のミュージアム
入場料安いんだけど、すっごい狭い。
これだけ。
ただ、すごく貴重なものが展示されていました。
サラエボ事件で犯人が撃った銃!!
まさか、現物を見るとは
サラエボ事件の日の皇太子夫妻の写真
その後の、葬儀の様子。盛大。
暗殺直前に、二人が使用していたカップや食器
犯人一味の写真。左が実行犯。
犯人の着ていた服
当日の皇太子夫妻の移動経路
見てもわからないと思いますが、ここにいるとわかった。
暗殺前にも、手榴弾での未遂があって、危険を感じた夫妻は
予定の昼食を取りやめ。
次の目的地への経路も変えたそう。
それが、運転手にきちんと伝わっていなく、予定通りの道を通って暗殺されたと。
警備は、変更された道にいたとか。
暗殺のニュースの新聞
以前は、事件現場の犯人が立っていた場所の道路に、足型が記されていたが
現在はなくなっていた。
そのコンクリートのみ博物館に展示されていた。
民族、宗教が混在するこの国、この地区。
半径50m以内に、イスラムのモスク、カトリック教会、セルビア正教会、ハプスブルグ時代の建物が混在する。
イスラム
カトリック
セルビア正教会
ユダヤのシーナゴーク
中心部。旧市街。バシチャルシァ。
昼の姿は初めて。
いい雰囲気の町並み
コーヒー豆を直接沸かす、ボスニア風(トルコ風)コーヒー。
その容器。
とてもかわいい。
ボスニアには、各家庭にひとつずつ必ずあるものらしい。
スプーン
木製品もオリエンタル
たくさんの取っ手
アクセサリー
サラエボオリンピックキャラクター商品。いらないだろ。売れるのかな。
お土産やさん。
買い忘れたけど、これ欲しかった。くやしい!!
戦況マップ
ポストカードがあればほしかったけど、大きいポスターはね。
持ち帰れないし。
ドレスの展示。
この町並みでドレスを着る人がいるのかな。
クラクフでも、そういうお店いっぱいあったなー、
雰囲気のいい食べ物やさんが多い。
適当な場所に入って。
ボスニアコーヒーを注文。
食べ物は、何かローカルフードを食べたいんですが。というと。
うちの店の食事は、全部ローカルフードだ。と。
たしかに、どれも聞きなれないもの。
適当にひとつ頼む。
ボスニアコーヒー。
濃い少量のコーヒーを小さいカップに注ぐ。角砂糖2つか。甘かったけど、美味しかったです。
食事。
トンネルのおじさんが紹介してくれたものだ。
パプリカにひき肉と、米をつめたもの。
ひき肉の塊に、何か葉っぱをまいたもの。
それをトマトスープで煮込んで、サワークリームがかかっている。
どれも、とても美味しかったです。
なんだか、重たいものばかりみていてたので
ほっとします。
楽しくなってきました。
お土産やさん
食事が運ばれてきたとき、こんな蓋が乗っていたな。
本当にいい雰囲気の町並み。ぶらぶらしているだけで楽しい。
ぶっそうな。銃弾でつくった小物。
豆引き。
取っ手がついた、大小さまざまな容器。どれも、コーヒー入れ。
大きさは、家族や集まりの人数に応じて変わるのだとか。
ご当地料理のブレド。パイみたいな中に、肉とかが包まれている。
これを買って、夜に、宿で食べよう。
こうやって作るのか。
Tシャツ
ライト
かつての
ぶらぶらしていたら、この看板。
カトリック大聖堂の横。
見覚えのある写真。
強い印象のまなざし。
彼女は、昨日訪れた、スレブレニッツァで多くの家族を失った女性。
吸い込まれるように、矢印のほうへ。
EVERYDAY MEMORIAL FILMと。何か、写真展??
建物の入り口。
ちょっと、怖いけど中に入ると、エレベーター。
あがるとそこには、無数の文字
ここは、スレブレニッツァの虐殺に関する
写真展示、映像上映、ガイドを行っているギャラリーでした。
知らなかった私もうっかりものだけれど、こんな場所があったなんて。
偶然とおりかかって、知ることが出来て本当によかった。
入場料が10マルカ(5ユーロ) ガイドが2マルカ(1ユーロ)でした。
ギャラリーのサイト→http://galerija110795.ba/
まずは、30分程度の映像を見てから、ガイドに入りますと。
映像は、当時のものから。
押し寄せる難民、国連が安全地帯に指定し喜ぶ人々の笑顔
セルビア人兵士、たくさんの死体。怪我をしながらも生還した人々の姿。
そして、生還した人々、残された人々の当時の、現在に至る苦悩。
それを、数人の当人達からの語りで。
スレブレニッツァの資料館のガイドは、すべて生還者本人によるものらしい。
なんというか、映像がけっこうリアルでクリア、そして、カラー。
とても、近い時代なのです。
頭では理解しているんだけど
いつのことで、どこのこのなのか。
受け入れがたい。そんな感じで混乱しました。
ただ、昨日のスレブレニッツァの訪問。
それは、それでとても意義のあること。
その場所を直接訪れたこと。
ただ、そこには、その場所が変わらず存在していて、写真、文字の解説がある。
そして、現在のその村の様子を目で、耳で、足で歩いて感じてきた。
本当のこの場所にだけある、存在感。迫力。
ただ、何かが足りない感じ。
それをこの場所が補ってくれたような。
確かにそこに存在感したこと。
そして、現在も人々の中に深く残しているもの。
リアリティ。
ここだけでは、映像と写真。
どこでも、見られるもの。
どちらも経験したからこそ。
足りなかったピースがひとつ埋まったような。
私には、決して埋まることのないピース。
ただ、ほんのわずかだけれどひとつ近づいた。
そんな感じがした。
展示してあった写真(他のサイトからかりてきたものも)
写真撮影できないようだったので。
一部は、購入したポストカード。
犠牲者の顔写真
展示されていたたくさんの写真
この地の象徴する印象的な写真。遺体のおさめてある棺。
多くの家族15人も失った女性
生還した少年
生と死
証拠を消すため、移動を繰り返しばらばらにされた遺体。
それを、生還者で探すためのスコップ
同じジェノサイド。ユダヤ人のアンネフランクの写真を見つめる人。
数千のセルビア兵に対し、たった200人の国連平和維持軍。
無力感ゆえだろう。
国連軍の国連施設への落書き。
国連 United Nation ではなく
United Nothingと。
ここのガイドスタッフはとても若く、スレブレの生還者ではないようだった。
昨日スレブレニッツァを訪れたこと、ガイドと連絡を取り合ったが、間に合わず
ガイドは受けられなかったこと。
偶然この展示を知って、見に来たこと。実に来て、ガイドを聞けてとてもよかった。
そう、ガイドに伝えた。
私達のガイドでは、不十分だと思いますが。
現地の人と比べると…。
とても親切なガイドは、そんな風に話していた。
外に出たら、だいぶ夕暮れ。
セルビア正教会の前
チェスに興じる人々
砲撃による被害者の跡。
サラエボのバラ
夕暮れ サラエボの空
夕方になると、毎日大音量で聞こえるイスラムのアザーン。
これは、礼拝の時間を知らせるもので、
すべてのモスクから流されているという。
聞きなれない言葉、聞きなれない音楽のようなリズム。
最初は怖かったけど、
この夕暮れの風景に町全体がこの音に包まれる。
この音が心地よく響く。
もう聞けなくなるのか。
写真だけでは伝わらない、この町の空気。
参考に
ボスニアの国旗
スーパーで飲み物を。
ご当地商品があるから、スーパーは面白い。
コーヒーがオリエンタルなパッケージ。
買ってないけど、ビールがでかい。2L。
フレーバー水。これ美味しかったなー。明日は朝早いので、バスの中の分も購入。
買ったビール
近くまで行ったのに、よらなかったモンテネグロという国。そこの地名の書いたビールがあったので。
さっき、買ったブレド。
これをつまみつつ、明日の下準備。
パッキングして、明日の街の予習。
長居した、サラエボともお別れです。
お休みなさい。
夫は、グラーツまで直行のバスがあるので、帰ります。
グラーツ=サラエボ間。バスだと往復69ユーロ。とても安いです。
今日はあいにくの雨。
天気予報を見て、念のため私が持って来ていた折り畳み傘。
そんなのでは太刀打ちできないほど、土砂降り。
切羽詰ってトラムに乗りました。
チケットは運転手から直接購入。
歩けない距離じゃないけど、この雨では。
駅のチケットセンター。
私は、明日のセルビア ベオグラード行きのチケットを購入。
このターミナルからは、1日1本 朝の6時発だけ。
東サラエボのターミナルからは、1日4本。料金も安い。
ただ、すごく遠くておっくうなのと、利用したことのないターミナルでバスに乗ることの不安。
あと、早朝出発は、起きるのが大変でも、バスに乗ってしまえば寝られるし
到着が早い分、半日くらい観光できる。
ベオグラードは、そんなに見たいと思っている場所がないので、
ぶらぶらすればいいかと。
ということで、連邦側で購入。
*チケット情報
サラエボ=ベオグラード 6時発 13時着 7時間 24ユーロ
夫を見送り、今日は、一人なので、一人用の宿に移動。
個室、自室専用シャワー付きのユースホステル。
1泊16ユーロ。
頼りのcity map 2 Go も booking.comも地図が間違っていてわからない。
道行く人に尋ねたら、その場所まで連れて行ってくれました。
小さい子供がいたのに、本当に親切。
親切な人がとても多い。
ユースホステルだしと、期待していなかったら
けっこう立派。
チェックイン前だから、荷物だけ預けようと思ったら、部屋も使っていいよと。
土砂降りで、靴も上着もびしょ濡れで寒かったからありがたい。
しかも安いのにきれいな部屋。
バスターミナルに近いから、明日は便利。
上るのは大変だったけど、丘の上にあるので、街が見下ろせていい眺めです。
まだ雨が降っているので、部屋で休憩。
ドライヤーで靴とか乾かしながら。
市内観光をしようとは思っていたんだけど、どこに行こうか、ガイドブックを見ながら考えます。
残ったお金
サラエボの通貨。
マルカ。
2マルカ=1ユーロ
昼前くらいまで、ゆっくりしてしまった。
ぼちぼち出ないと、ここで一日過ごしてしまったらもったいない。
廊下。
郊外にある、トンネル博物館というところへ行ってみることにします。
東サラエボのターミナルがどんなものか見てみたいし。
スナイパー通りを、トラムでずっと移動してみようかと。
青:ホテル周辺
緑:東サラエボターミナル
真ん中下の薄いオレンジのマルがトンネル博物館。
*市内中心部からトンネル博物館へのアクセス
ちょっと遠いので、有料のガイドツアーもあります。たしか16ユーロ。
私はもちろん自力で。
3番トラムで東サラエボのある終点まで。約30分
すぐ横にバスターミナルがあるので
そこから32番バスで終点まで。約10分。
そこから歩いて10分。
バス停の左に小さい橋があるので、それを渡り
すぐに左に曲がります。
住宅地をまっすぐ600m程いくと右手にあります。
とのこと。行ってみよう。
バスターミナル周辺 けっこう都会
市内に多く見られるバス
日本から送られたものだとか。日本の国旗がプリントされていました。
そういえば、国連の明石さんが尽力したとかそういう話か。
ぼろぼろのトラム。
キオスクでチケットを買うと、トラム料金が安いんだけど
見つからなかったので、直接運転手さんから。
1.8Km(マルカ) 100円ちょっと。
機械に通し、ばちっと穴を開けないと、検札の人が来たときにペナルティが。
他の乗客にジェスチャーで聞きつつ、なんとか穴をあけることも完了。
満員のトラムの中、傘を持ったり、ふらふらしていたら
とんとんと肩をたたく人。
言葉は通じないけど、ここをつかむといいよ。
と手すりを譲ってくれた若い女性。頭にスカーフをしていたイスラムの女性であろう。
男性も、席が空いたとき、自分の目の前の席なのに譲ってくれた。
本当に、皆とても親切。
この高層ビルにスナイパーが潜んでいて
動くもの皆撃っていたのかと
想像しにくい、現実離れした、事実を思い起こし
トラムに揺られます。
東サラエボ到着
1食100円しないような飲食店が並び、美味しそうだったのだが、
まずバスをと思って探したら、すぐにあったので乗る。
チケットは運転手から購入。
値段がわからなく、言葉が通じなかったら、他の迷彩服を着た軍人さんのような乗客
自分のチケットを見せくれた。値段の表記があったので、その料金を支払う。
「tunnnel トンネル」に行きたいことを一応伝えておく。
行き先の確認と、きちんと降りられるように。
バスのチケット。紙をやぶって、渡される。
1.6Km(マルカ) 100円くらい。
日本から贈られたというバス。
日本の表示。
目的地に着くと、運転手さんが声をかけて教えてくれた。
しかも、ある老人を指して
この人に付いて行きなさいと。
英語の通じない老人。
ニコニコと、このあたりはと
現地の言語とジェスチャーで説明していくれているようだった。
残念。ごめんなさい。
彼は、この辺に住む人のようで、途中で、自宅に帰っていった。
この先、すぐだよと、私の持つノートに地図まで書いてくれた。
一本道であと数百メートルだというのに。
感謝の握手をして分かれた。
道中にも墓地
到着
多くの銃弾の跡が残る民家 トンネル博物館
サラエボは当時、このように周囲をセルビアに占拠されていた
唯一の外界との交通は、このトンネルのみであった。
ここから、物資、食料、医薬品の輸送を行っていたという。
当時800mあったトンネルは、ほとんど埋められ、現在は25m程度。
それが当時の資料と共に公開されている。
入場料5kmとガイドブックに書かれていたが
10kmだった。倍かい!!
はるばるここまで来たし、しょうがない。
トンネルの前に、資料展示がありました。
なかなか見ごたえのある資料。
当時の写真
トンネルで使用されたのだろうか、ランプ
トンネル内の当時の写真 兵士や市民の姿
このように物資を運んだのであろう。再現。
写真がカラー。現在にとても近いことだと感じる。
カラーの当時の動画もあり。
なんだか、不思議な感覚におちいった。
砲弾。地雷。
地雷って始めて見た。おもちゃみたい。
ここにも。
訪問者の名前と、メッセージを記載する冊子。
ここに訪問してきた人の写真が貼ってありました。
観光地みたいな気もしたけど。
違いますね。
こういう場所に訪れたのかと。
モーガンフリーマン
オーランドブルーム
ジョントラボルタ!
リチャードギア
これもトンネルの再現。
当時の写真
穴だらけのビル
ホテル ホリディイン
煙を上げるビル
この状態になっても、仕事を続けたという新聞社だったかな?
ホテル ホリデイイン この状態で営業していたのか
ホテルもすごいし ジャーナリスト達もここから報道していたのか。すごい。
サラエボ事件で、オーストリアの皇太子達が出発したというあの建物
オリンピックのスケートセンター
そんなところで、トンネルに入ります。
こんな感じ。
私の目線でも、低い。
成人男性だと、かがんでやっとだっただろう。
空港を横切るように作られたトンネル。
すぐ近くに、サラエボ空港が見えました。
トンネルの壁の無数の銃弾跡。
ここだけ保護されていたけど、何か意味があったのだろうか。
トンネルを出て、少し離れたところにお土産やさんのような建物。
入って見ると一人のおじさん。
なんというか、お土産やさんなんだけど、ほしいものがひとつもない…。
こんなところだからしょうがないのかもしれないけど。
サラエボオリンピックのマスコットマグネットとか
トンネル博物館のトンネルモチーフマグネットとか
サラエボのご当地の民族人形?みたいのが、普通のテーブルにちょこっと並べてある。
さっさと、帰ろうと思ったら、店のおじさんがすごく親切にその商品を説明してくれる。
きっと、観光シーズンじゃなくて暇なのね。
話を聞いていると、彼は、このトンネルを作ったスタッフの一人だったそう。
映像を流して、エンジニア、直接の作業を行った人、などと解説をしてくれた。
暇だったのか?
結局、このおじさんに付き合って2時間くらいしゃべってしまった(笑)
すごく、いい出会いだったなー。
ターミナルまで、またバスで帰るというと、すごく遠いというし、バスの1時間から1時間半に1本と。
ただ、時刻はわからないというので、バス停まで直接行って見たら、待っている人が。
聞いていると、5分後に来ると。
すんなり、帰ることが出来ました。
東サラエボのターミナルから、中心部まではまたトラムで30分。
スナイパーどおりを見ながら、トラムに揺られます。
ところで、このブログ。
こんな場所で書いています。
アパートメントの庭がwifi通じているので。
気持ちがいいです。
旅に出てのブログは、つい長くなってしまいます。
みんな、うんざりしているんじゃないかと思いつつ
あれも残しておきたい、これも忘れたくないなーと。
自己満足で書き続けてしまってます。すいません。
よかったら、同じ旅の足取り辿ってみてください。
楽しい観光地、ドブロヴニクを去り
ボスニアヘルツェゴビナへ向かいます。
8時発 14:30着予定。
6時間半の旅です。
運転手さんはいつも2人乗っていて、交代で運転しているようでした。
ボスニアヘルツェゴビナについて。
場所はここ
面積 北海道の6割
人口 384万人
首都 サラエボ
民族 ムスリム人44% セルビア人31% クロアチア人17%
宗教 イスラム教 セルビア正教 カトリック
言語 ボスニア語 セルビア語 クロアチア語
人種、宗教、言語が混在していることがわかります。
国内が、
セルビア人の「スカルプス共和国」
と
クロアチア人、ムスリム人(ボシュニャク人)の「ボアニカヘルツェゴビナ連邦」
に分かれています。
国旗
1984年 共産圏で初の冬季オリンピックを首都のサラエボで開催(当時はユーゴスラビア)
しかし、ユーゴスラビア解体の時代のうねりの中
1992年に独立宣言。そして、激しい民族紛争へと移行。
「民族浄化」(エスニッククレンジング)という表現に象徴されるような残虐行為が横行。
死者20万人、難民等200万人の被害を出すこととなった。
サッカー日本代表元監督 オシムさんの故郷でもあります。
上の国旗は、1998年の長野五輪開会式で、初披露されたらしいです。
移動経路はこんな感じ
直線距離だとけっこう近いんですが
道の関係なのか、入国審査とかの関係なのか
アドリア海沿いをしばらく北上してから、東へ進んでいました。
なので、出入国が3回も!
ちょうどいい地図。
座席
ベンツ
クロアチア内、最初はきれいな景色の中を進みます
観光地らしく、休憩所に日本語のお土産もあったりして
クロアチア国旗のイメージ。かわいい。
これは、どの国にも共通することなんだけど
バスにライト、空調とともに、スピーカーがついていて
音楽がかかっていました。ご当地っぽい。
そして、運転手さんがいつも歌っていました。
だんだん風景が変わってきて、葡萄畑かな?
ちらほら廃墟が
本当に無数の廃墟。
これも紛争の爪あとなのだろう。
写真には収めていないが、新しそうな白い石の集合墓地が集落ごとに何度も見られた。
西欧で、かならずひとつの集落にひとつ、カトリックの教会があるように
ここでは、ひとつの集落にひとつのイスラム教のムスクを見た気がする。
ドームの屋根と、高い塔。
休憩スペース
2~3時間ごとの休憩。
20~30分間
トイレがあり、レストランがあることが多く、そこで食事している人もたまに。
ここは、レストラン。
小さな滝があり
食事している人がいて
水車があって、いい雰囲気。いいにおい
と、思ったら
リアルな感じの、丸焼きをしていました!!
びっくり。
質問したら、ラムだと。
豚は食べないもんなー。
この光景、一般家庭の庭でもよくやるらしく、
この後も何度も目撃しました。
日本の庭でのバーベキュー感覚??
周囲の車のナンバーも、クロアチアの国旗をかたどったかわいいものから
ボスニアヘルツェゴビナのに変わっていました。
読めない字 女だろう
男だろう
細くうねる道。けっこう揺れるバス。
酔いそうなので、何も食べてなかったけど
そろそろお昼。
昨日買って食べ切れなかったパン。
小路のパン屋さんのアップルパイ。
休憩中に。
橋
そろそろサラエボ (Sarajevo)
1990年代のボスニア戦争。
ユーゴで主導権を握っていたセルビア人
対
独立を主張する ムスリム人とクロアチア人
結局、セルビアは、セルビアという国が出来て
このボスニアヘルツェゴビナも独立が承認されたんだけど
現在でも、その3種類の人種はこの市内に存在しています。
ただ
それぞれ居住地が違い、バスターミナルも違います。
RS:セルビア人共和国(スカルプス共和国)
FD:ボスニア・クロアチア連邦
東サラエボと呼ばれる、セルビア人居住区側(RS側)のターミナルは、中心部から13km。
主に東側へ向かうバスが出ている。
中心部までバスやトロリーバスで30分かかる。
ムスリム人、クロアチア人居住地(FD側)は、鉄道駅のすぐ横。
主に西に向かうバスが出ていて。連邦ターミナルと呼ばれる。
居住地もバスターミナルも違うということに驚く。
青:連邦ターミナル
緑:東サラエボ
ちなみに、クロアチアからだと、西からのルートなので、中心部の連邦ターミナルでした。
これは、ちょうど東サラエボから連邦ターミナルの間くらいの風景。
廃墟が多い。
トラムが古い
テレビ局?見たことある建物な気がするんだけど。
社会主義っぽい建物。
古く、背の高い集合住宅。
この通りにはとても多い。
よく見ると、どの建物の壁にも、多くの銃跡。
最初は驚いていたが、この後、ほんとうに街中いたるところで目にすることに。
だいたい予定通り14:30到着。
だんなさんは、昨日の夜にグラーツを出発し、今日の早朝にサラエボに到着していました。
宿の鍵を受け取ったり、一人ぶらぶら散策していたみたい。
プリペイドフォンはオーストリアでしか使えないし
iPhoneのlineとかもwifi環境にないと使えない。
連絡手段がないから、落ち合う手段がない。
夜に宿に集合かな。
なんて、言っていたけど、ターミナルまで迎えに来てくれていました。
ホテルがとてもわかりにくく、たどりつけそうにないかららしい。
*サラエボ 連邦ターミナル情報
・チケット窓口 24時間ではなかった。いつしまるかは、忘れた。
・購入通貨 現金のみ。現地通貨 マルカ もしくは ユーロも可 クレジット不可
・ATM なし
・両替 なし 近くの郵便 もしくは 東へ300mほどのショッピングセンターTOMにあり
・ベオグラードへのバスの時間 朝6時のみ 24ユーロ
(東サラエボからは4本/日 あり こっちのほうが少しだけ安いかも)
両替はターミナル近くにはないですが、近くのお店や飲食店でユーロ払いすると、現地通貨のおつりをくれます。レートもいいです。
街中に24時間対応のクレジットや国際キャッシュカード対応のATMがいたるところにあります。
そんなに、あせったり、不安がらなくてもいいかも。
今日は、夜までだんなさんに会えないと思ってたので
ホテルまで移動しつつ、街中をぶらっと見て、あとは宿で休もうかと思っていたんだけど。
せっかく会ったし、二人で観光することにします。
だんなさんも見ていない場所あるようだし。
サラエボの街中
青:鉄道駅、バスターミナル
赤:中心部 旧市街(バシチャルシァ)
黄色:オリンピック会場跡
緑:セルビア人地区 東サラエボ バスターミナル
宿は、赤丸の中心部のあたり。
青のバスターミナルからだと、オリンピック会場の方が近いので
私は大荷物を背負ったまま、オリンピック会場跡地まで歩きます。
共産圏初のオリンピック開催
その後の戦争
栄光と影を併せ持つ場所へ。
オリンピック開催の1984年というと、私は2歳の時だったけど
記憶にある人もいるのかもしれないな。
駅前にそびえるタワー アヴァズツイストタワー
ボスニアを代表する新聞社が入っていて、展望スペースもあるそう。
ボスニア一高いビル。
ボスニアは、展望風景ではなく、近くからその姿を見たいとなんとなく思う。
上りませんでした。
タワーと、その下のビル。
対照的だな。
トンネルを通って
見下ろす墓地 これは普通の昔ながらの墓地だと思う
墓地の近くだからだろう。花屋。
当時、サラエボの街の周囲は、セルビア人に包囲されました。
それをあらわす戦況地図
ぐるりと周囲の山が占拠されている。
サラエボ空港は、国連の管理下だったので、そこだけ空間があいている。
死者は20万人
埋葬する場所、死体の置き場所すらなく
10年前にオリンピックを行った会場に死体を並べていたのだそう。
街を囲む四方の山が占拠され
山から街中が銃撃された。
日中に死体を運んだり、埋葬するのは命の危険があるため
暗い夜間に行われていたとか。
現在は、慰霊碑と墓地になっていました。
無数の新しい墓石
慰霊碑には、没者の名前。
没年は、ほとんど1992年、1993年
桜が咲いていました。
このあたりには、日本人が数百本植樹したと聞きました。
慰霊碑の横に残されていた、オリンピック会場。
おそらく戦争を知らない若者。サッカーをしていました。
スケートリンクセンター
オリンピックのタワー
下の看板には、オリンピックの公式、マスコットの絵
当時から使用されているであろうバス
表彰式などやったのかもしれないような広場
サマランチ会長の名前
オリンピックスタジアムは入れませんでした。
しばらくは廃墟にはっていたけれど、最近はサッカーの試合をしたり、(U2だったかな?)歌手のコンサートもしているそうです。
丘の上から見下ろすと
よーく見ると「SARAJEVO」の文字
緑の座席にくりぬかれるように。
ライト
のぞけた
聖火台だったのだろう (これは後日撮ったもの)
遠くの山にも、新しい集合墓地。
白いのは、きっとあの戦争の没者のもの。
オリンピック跡地をあとにします
ファンタ 青い
市場
ご当地料理の肉の棒
日本のスーパーで見る ハンバーグのネタみたいなものかな?
肉
果物
新鮮そうなホウレンソウ
スキニージーンズを履くのか
SPORT adidasではなく…
戦争から20年。
この土地に人々は暮らしている。
犬が寝ている。見慣れない光景。
日本では、野良犬がいないからか。
異様に感じる。
上の線から電気をもらっている。ケーブルカー。古い。
市内に所々見られる。
「サラエボのバラ」
戦争時 砲弾により6人以上だったかな?死者のでた場所にこの
ように、赤いペンキか樹脂で埋められているそう。
20年経過し、数をへらしているのか。
私は2箇所しか見ませんでした。
サラエボのバラの周囲。
街中なのに、墓地らしきもの。
修復されていないままの建物
町中のいたるところの銃弾の跡
街はおしゃれな人々が行きかい、とても平和な雰囲気。
きれいな、都会的なビルも多い。
ただ、爪跡はまだまだ残されている。
あまりに多くて見慣れてしまいそうになる。
この一つ一つに、銃が打ち込まれ
命が奪われていっていたのかと思う。
補修されてもなお、はっきりとわかる、銃弾の跡。
平和な町並み
戦争時、サラエボにはスナイパー通りと呼ばれるストリートがありました。
このように、セルビアに包囲されていた市内。
旧市街から脱出するには、必ず通らなければならない道。
ただ、動くものはすべて、高層ビルに潜んだセルビア狙撃兵の標的になったという。
砲撃の被害も甚大だが、子供、老人、女性の狙い撃ちされたという。
ピンクの線がスナイパー通り
その通りに面する、1つのホテル。
「ホテル ホリディ・イン」
戦時中も、大きな被害を受けながらも唯一営業を続けたというホテル。
世界中のジャーナリストが宿泊していたという。
街に到着して、すぐ目に入った姿。
改装中なのか、宿泊予約が出来なかったです。
去年は宿泊している人がいたよううですが。
カフェのみ営業しているようだったので、行ってみました。
銃禁止
そのソファに腰掛け
ジャーナリスト達が使ったかもしれない灰皿
コーヒー 安かったです。
100円とか200円とか。
カウンター
壁には、戦時中の絵か写真
free wifi でした。
夕暮れです。
街中を通りながら、宿へ向かいます。
これも銃弾の跡なのか。地面。
Army Shopかぁ
ここは、第一次世界大戦のきっかけになったという
サラエボ事件の現場 「ラテン橋」
昼間の姿
橋のたもとにあるミュージアム。サラエボの歴史がわかるという。
ここを出発した馬車にのった皇太子夫妻は、直後に暗殺されました。
現在は国立図書館。
ふー、重い荷物をしょったまま
だいぶ歩きました。
宿に到着。
ホテルではなくて、分譲マンションを貸し出しているような感じ??
場所はわかりにくかったけど、一泊一人20ユーロくらいで安かったです。
オープンしたばかりで、サイトに口コミがなかったので賭けで泊まってみました。
広い!!きれい。
wree wifi
使えなかったキッチン。
夜遅かったから、言わなかったけど
言えば、使えたのかな?
もったいない、設備。
お湯沸かして、あったかもの飲みたかったなー。
ださいけど、ちゃんとしたベッド。
暖房完備。タオルもあり。
謎のトイレ2つ、風呂あり。
洗濯機あり。使わなかったけど。
長時間の移動のためか、夫が体調不良。
花粉症っぽい感じも??
鼻ぐずぐず。熱もありそう。
食事は、近くにピザやさんがあったので、そこで購入。それと、その近くの商店でご当地ビール。
「Sarajevo」 という銘柄。
ピザ屋さん。
生地をくるくるっと伸ばすところからやってくれて、石釜で焼きたて。
サラダがほしいとい言ったら、メニューにないのに、お店にあった野菜を詰め合わせてくれました。
しかも、サラダをあとから注文したら、ピザが冷めてしまったと、ピザをもう一回焼きなおしてくれていました。
なんて親切!!
24時間、家族で交代で寝ながら、お店をやっていると話していました。
すごく親切で、サラエボに行く人がいたら、ぜひお勧めなお店でした。
ぜんぜんご当地料理じゃないけど。
ピザ300円 サラダ100円
ビールも100円くらいだったかな。
旅はまだ続くので、早めに就寝します。